浪人失格

恥の多い生涯を送ってきました。徒然なるままに日々の考えを記録していきたいと思います。

認知症が愛した晩御飯

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人生、おじいちゃんになった時に「ああ良かったな」って思えればいい。
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というのが僕の哲学だったのですが、最近割とこれバグが多いなって思いました。

①おじいちゃんまで生きれるのか問題
②そのときに思い出すほどの認知能力が残っているのか

などなど。
最近成人の祝いがあって、高校同期とあった訳ですけど、そのとき着々とみんなの生え際が後退していてですね、ハゲている友達に言ったわけです。

「でも今は、これからのお前の人生で最も髪の毛がある時なんだぞ」

って。

うーん、よく考えると、人間って、今が残りの人生で一番若いわけじゃないですか、そうすると、じゃあその時をひっくるめた所まで判断する「おじいちゃん」がさらに未来に控えてるとして、死ぬ直前まで結局判断することが出来ない。

①のバグは、絶対的おじいちゃん(65歳以上定義)ではなく、例えば36歳で交通事故で死ぬのなら、自分の人生の中で相対的おじいちゃん(35歳)を定義することができるので、バグ回避の方法は「相対的おじいちゃん」を利用するということであるはずなのに、生きているときは、残りの人生の中で一番若いのだから「相対的若者」になってしまう。

つまり、いつになってもおじいちゃんとして自分の人生を振り返って良かったなぁと思うことは出来なくなります。

昔、ブログに「今はどうせ消滅するし、将来によって規定される」のかなぁみたいなことを書いたんですよね。それって割と今回のこのバグを表しているのかなって。
(http://kusomaguroman.hatenablog.com/entry/2017/06/29/213819)

 

そしてですね、さらに②のバグがあります。
おじいちゃんである自分を心待ちに待っていたとして、将来ボケてきて認知症になるかもしれません。その認知症のおじいちゃんこそが自分の人生を審判して良いのでしょうか。

なんでこんなことを思ったのかというと、インフルで寮の部屋を隔離され暇オブ暇して食っちゃ寝を繰り返していたら、自分がさっき薬を飲んだのかも覚えていないわけでちょっと焦ったからです。そして、もっと直接的な理由を書くと、この記事を書き始める2分前くらいに友達が「大人になって5年もすれば顔とかも忘れちゃうのかな」みたいなことを呟いていて。内容はどうとかいう話は知らないので置いておいて、「あれ!?逆に五年前やってたことってなんだろう!?中3か(時空の歪み)あんま覚えてないや。」という気付きを得たこと。

若者の今でも5年ぐらいで結構忘れるのに、おじいちゃんになった頃に思い出そうとしても2時間前の晩御飯くらいが関の山だろう。

悩んだ結果がこう。
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人生は、「おじいちゃんになった時に「ああ良かったな」って思えるな」と今思えるなら良い。
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なんかよくわかんなくなってきましたが、言いたいことはこんなことです。

①これまでの人生で一番のじいちゃんは自分。(過去を振り返る視点を持つ)
②これまでの人生で一番の若者は自分。(未来を描く視点を持つ)

アメリカでは、自分が生きていて認知能力があるうちに、交通事故とかで植物状態になった場合は延命治療を取りやめるみたいな意思表示ができるらしいです。似てますね。似てるか?わからん。

この前は「未来から過去を規定する(現在→過去、未来→過去を含む)」という話だったのに、今回は「現在→未来」という風に規定しているという点ではやっぱり似ているのかもしれません。

でもここまでいくと、「一旦思考の中でおじいちゃんを介する必要ある?」ってなって、結局現在しか存在しないのかなって。

人生楽しんだもん勝ち.jpなのかなって。

僕と同学年の人、あ、ごめんなさい。僕の1つ上の学年の方も、成人式シーズンで、過去の振り返りをするいい機会なのではないでしょうか。

僕は小学校の友達と、体育の授業中ズボンを脱いで跳び箱して一緒に怒られて、その後先生が見本をみせて骨折した。というネタで30.40.50.60...といくつになった同窓会でも話を続けることになるでしょう。

逆に、長年残る思い出なんてそういうことばっかなのかなって。5年で忘れるような思い出はそれ以下なんです。忘れちゃえ。