浪人失格

恥の多い生涯を送ってきました。徒然なるままに日々の考えを記録していきたいと思います。

声の大きなフェミニスト

最近Twitterを見てるとフェミニストのRTが回ってきてあーって感じになります。最初に言っておくとまぁ寛容は不寛容に対して不寛容でいることも出来ないので、僕がこういうことを言う時は、相手からなんて反論されようがそれを阻止するつもりもないし、それに従うつもりもありません。どうこうしたいとかでもなくただの浪人生のぼやきとして聞いてくれたら嬉しいです。

 

こんなこと言う僕は男尊女卑なのかというと、僕を知る人からすればまったくそんなことはないと思います。毎月生理が来るのもどんなものなのか知らないけどたぶん僕だったら耐えられません。出産の痛みもわからないけど辛そうだから僕には出来ません。女の人は凄いですね。

でも僕は、声の大きなフェミニストが苦手です。

僕が苦手な部類の声の大きなフェミニストは、大概「男はクソ」「男は女のためになんとかしろ」「男はズルをしている」などと、大概は男を叩きます。別にそうでない部類の、本当に男女平等だとかを掲げてる人は一切文句言うつもりはありません。

こういうツイートに、更にクソリプを送って生産性のない論争みたいなのを送る男もいますが、Twitterで論争をしてもまったく進捗が生まれないということをいつになったら人類は学ぶんだろうかと思いながら過ごす日々です。まぁ生産性のないことは僕も好きなので、その点でどうこうこれ以上いう気もありません。暇なのはいいことなのかもしれないけど。

僕は、普通に知らん人から男が男というだけで叩かれるのは素直に悲しいです。彼らによると僕は無意識のうちの加害者になっているらしいです、ああいう人たちに言い返してもめんどくさいだけなので最初から謝っておきます、ごめんなさい。
真の平等主義者ならば一人一人を実存的な存在として尊重するものだと僕は思っていたので、なぜ男女平等を謳うような人が、ある人間を男だというだけで叩くようなことが起こりうるのか分かりません。


さてちょっと話がズレますが、「弱い」立場にいるということは、逆に21世紀のこの時代は強みになることがあります。(カギ括弧は、社会通念的にそうみなされているということで、僕がそう思っているという訳ではありません。)
アファーマティブアクションと多様性の名の下に、ハリウッド映画には時代的にいるはずの無い黒人や(2017美女と野獣)、原作にはいなかった黒人(2018オリエント急行殺人事件)が登場します。
大晦日の特番のガキの使いでは、浜田さんが黒人であるエディーマーフィに扮して海外でニュースになったり、女であるベッキーがタイキックされるとネットで番組が叩かれたりしました。

ここで浜田さんが日本人に扮していたら、ベッキーではなくゲス川谷が蹴られていたら、恐らくこんなふうに叩かれるどころかみんなは笑っていた事でしょう。
結局、世の中で声を大にしている人々は「黒人」であるから騒ぐし、「女」であるから騒いでいるのであって、「エディーマーフィ」だから浜田さんを叩くのでも、「ベッキー」であるから擁護している訳でも全くないという事です。

反差別主義者はエディーマーフィをエディーマーフィとして見ていないで、要するにただの黒人としか見ていない訳なのではないでしょうか。
その点でほかの人よりも反差別主義者の方が差別主義者的であるとさえ思えます。
僕は浜田さんの扮装を見て黒人を馬鹿にする意図は感じなかったし、自称反差別主義者が向ける反差別の目がいわゆる「差別」を生み出しているのに違いないと思います。創られた差別に僕は思わずため息が出る。

 

僕は、「違うものを同じように扱う」のが平等だとは思っていません。違うものは違う。それでいいと思います。
今、栃木県民のAさんと香川県民のBさんがいるとします。AさんとBさんを同郷のように接させるのは無理な話です、違うものは違うんだから。

そういう時に、僕らは差別を感じますか?答えはnoだと思います。

栃木県民も香川県民もどちらが上だとか下だとかそんなものではない。

男女の関係もこれでいいと思います。男にだけ出来ることも、女にだけ出来ることもあるんだから、男には出来ない事も、女には出来ない事もあるんだから、「同じように」扱うという意味での平等というものは本当に馬鹿らしいと思います。

まぁそういう簡単なことが、綺麗なことが出来ないから今までに色々な差別が起こってるわけです。そこで、僕の考え方をここに書き記そうと思いますが、それを参考にしようがしまいがそれはみなさんの自由です。別に絶対的に自分が正しいなんて思ったことはないし、そういう考えが一番危険ですから。

思うに、世の中の人々は「相手をどうこうする」ということに興味を持ちすぎではないでしょうか。ラブソングを歌う時に「僕が君を幸せにする」とか歌ってますが、僕が去年書いたポエムでは「好きすぎて一休さんになっちゃうよ」、です。内容は意味わかりませんが、世間一般の意識が「相手を変える」であって、僕の意識が「自分が変わる」というものであるという違いが如実に出ているなぁと思いました。
相手を幸せにするなんてとてもじゃないけどおこがましい、僕が出来るのは僕が幸せにならさせていただくこと、あるいは僕の中で大切にすることぐらいです。でも、それがお互いに出来たらこれ以上なく素晴らしいことだと思います。

僕が何かをこれからやらかしたとしたら、「男はクソ」ではなくて、僕がクソだと認めてくれると嬉しいです
僕が何かこれからいいことをした場合は「男はいいやつ」ではなくて、僕がいいやつだと認めてくれると嬉しいです

男というくくりではなく、僕を僕だと見てくれた時点で、それが悪かろうが良かろうが、タダの男の一員として語られた場合よりも僕はすごく幸せです。日本人がメダルをとったって僕は褒められるに値しないけど、僕がたとえ海外で罪を犯しても、日本人が悪いということはありません。