浪人失格

恥の多い生涯を送ってきました。徒然なるままに日々の考えを記録していきたいと思います。

他人を借りて、自分を語る。

面接などの機会で自分の思考パターンを他人に説明しろ、自分の性格を分析しろ、と聞かれることはよくあると思いますし、自分でやってみようと思うことだって少なくないでしょう。

その際に面白いなぁと思うのは、自分の体験や過去と照らし合わせて語るというのは客観視できないのでなかなかに難しく、逆に他人の立場に立ってみるだとか、物語を作ってみる方がわかりやすいということが多いのではないのかなぁということです。


例えば、遊園地で泣いている少年がいるとします。
その光景を見て「ああ、迷子なのかなぁ」とか「自分だったらインフォメーションだとかお客様センターに行くなぁ」とかいろいろ思うでしょう。(ちなみに、ここで「母親を探してあげよう」と考えるのは、趣旨から離れますね。これは迷子の立場ではなく自分の立場から考えていて、自分というものを消しきれていません。)

その少年の実際の気持ちというものは、これは絶対にわかりません。
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かつて、ある面接で「世の中には辛い思いをしている患者さんがたくさんいますが、そういう人たちの気持ちが分かりますか?」と聞かれたことがあります。
僕は少し悩んで、「身内にいないのでわかりません」と正直に答えました。僕はこの時にもちろん「わかります。」と答えた方が面接においては有用だと分かっていましたが、そう答えました。
その人の辛さというものは、その人にしかわかりません。それを分かったようなつもりに他人がなってしまうという事は、その人の高慢さ、慢心故の事であり、ある意味で侮辱行為なのではないでしょうか?偉い人にはそれが分からないようなのです。

たしかに、知識というものは、この「憶測」の精度を上げます。こういう病気はこういう症状が出る、だと知っていればそのような配慮は出来るかもしれませんが、自分がインフルエンザにかかってみないとインフルエンザというものがどれぐらい辛いのかは分からないし、それを知ったところで、あるインフルエンザの患者と自分とは、性格、境遇、環境、具体的な症例も違うから彼の気持ちを正確に読み取ることも不可能です。

ただ、絶対にその人の気持ちは正確にわからないと受け入れた上で、コミュニケーションを通じて寄り添うということはもちろん可能だと言うことは、付け加えておきましたが、どれほど面接官にこの意味が伝わったのかというと、ほとんど伝わってなくて、彼は僕のことをサイコパスかなにかと思ったのでしょう。

ほら、彼だって昔面接を受けたはずなのに、それでも僕の気持ちや考えというものは分からないじゃないですか。
そして、コミュニケーションを通じて相手に寄り添って貰うことに、僕もまた失敗しているじゃないですか。

もちろん、相手が十分に理解してくれている可能性もありますが、そういう場合だとしても、それならばそれで、自分は相手が理解してくれていないと僕が思っている時点で僕が相手の気持ちを理解することに失敗しているという証明にもなります。
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さて、こういうことを言って他人にはその人の気持ちがわかりっこないさハハハということを主張したいだけなのだと読者の方が思うのならば、それはまだ甘いです。
僕はこの「憶測」というものを、逆に肯定的に見ているという文脈にも注目して頂きたい。

先ほどの「迷子」「つらい」「悲しい」というのは、あくまで憶測で、これはその子供の気持ち、考えに思えて、あくまで自分のものなのです。
これを通じて、自分は迷子になった時にどういう気持ちになるのか、あるいはどういう行動をするのかという事を、実際に自分が迷子にならずして、その結論を得ることが出来るのです。

つまり、少年を見て自分が少年の気持ちになってそれを語ることで、「実際には少年の気持ちではなく、自分の思考」を抽出出来るということでしょう。

 

さぁ、なんで僕が急にこんなことを書いたのかというと、そのうちわかります。長くなるので、次回以降の記事に書きたいと思います。