浪人失格

恥の多い生涯を送ってきました。徒然なるままに日々の考えを記録していきたいと思います。

百万人の為に歌われたラブソングなんかに、僕は簡単に思いを重ねたりはしない?

無人島の続きを書いても良かったのですが、今日はあることの悩みが爽快に解決したような気がするのでその事についてのことを感動をこめて書きたいなと思います。

 

人間には大きく二つの感情があります。「他人と同じでありたい」という考えと「他人とは違った存在でありたい、特別ななにかでありたい」という考えです。
前者は昔ながらのもので人間というものはその地の伝統的な集落で集団としての暮らしで重視されてきたものです。一方で、後者の考えは近代になって現れてきた個人主義的な発想で、いわば実存主義的な、つまり大衆とは違った、自分の生きる意味を名付けたいというものです。

なんでこのタイトルをつけたのか?このタイトルは、ポルノグラフィティの「ヒトリノ夜」という曲の歌詞ですね。(前もって断っておきますが、別に僕は歌詞大好き音楽大好きというわけでもないし、夜中にドヤ顔で歌詞ツイートしてる人をどちらかというと冷めた視線で見つめています。)

人々の「自分は別でありたい」という欲求を、あくまで大衆に向けて作られた作品がそれを満たすことが果たして出来るのでしょうか?

この問いは、多様化したニーズつまり前者と後者の対立というものは「画一的な需要」と「多様化した需要」の対立となるのではないでしょうか。

結論からいうと、芸術作品であれば、それは可能であり、ものによっては不可能でもあります。

作品の読解、鑑賞というものは双方向の解釈からなりますから、読み手の解釈によって作品の幅が広がるのではないでしょうか。具体的な例をあげるとしましょう。

例えば、僕は全然好きじゃないんですけど、お笑い芸人の小梅太夫氏は「まいにちチクショー」というネタを投稿しています。これを見て「へぇーつまんね」と思う人もいますが、中にはこういう人もいます

f:id:kusomaguroman:20170724225005p:image

f:id:kusomaguroman:20170724225015p:image
別にこれが面白いか面白くないかはおいておいて、このような無理やりな解釈もやろうと思えばできるんだよ、という例として上げさせていただきました。

 

 

ところで、最初に書いた「悩み」とは現代芸術というジャンルについてです。
現代芸術のなにがいいのか、それについて上手く理解していませんでした。
現代美術の主流については以下のような感じで、明快な答えがありません。

f:id:kusomaguroman:20170724225111p:image

ピカソの絵は、なんで写実的な絵より評価されるんでしょうか?なんで小学生がパソコンで書いたような絵が数百億円で取引されるのでしょうか?
そもそもいったいシュールレアリズムの価値とはなんなのだろうか。
そう悩んでいたのです。

そして今日、その悩みに明快なひらめきが思い浮かびました。多様化したニーズに対応する作品を世に出すために「解釈、思考の余地」を残した作品が、現代の主流になったのではないでしょうか?
これらは国語の問題のように、1つの筆者の考えを書くというものではありません。国語の問題として登場するのは、それが客観的に見てある程度「解釈」の幅が決まっているというものなのです。しかし、詩やこのような芸術作品には、そのような決まったものがありません。だからこそ色んなふうに読み取ることが出来る。そうして多様な人々が多様な解釈をすることを阻むことはありません。

つまり、現代芸術というジャンルは、人間精神の上記のような発展にあうように成長したものだったのではないでしょうか?