浪人失格

恥の多い生涯を送ってきました。徒然なるままに日々の考えを記録していきたいと思います。

お母さんの葬式で泣かないと死刑にされる本

けっこう前になりますが、アルベール・カミュの異邦人という本を読みました。カミュといえばよくサルトルと並べられる人ですね。

 

あらすじを読んでみましょう。
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母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑い転げ、友人の女の出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれる事だけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作。
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これを見た瞬間、僕は「あ、この主人公って頭のおかしい暴力的なクズ人間なのね。」と思ったんですけど、読んでびっくり、全然そんな事はないんですね。あらすじではこういう行為を全部主人公が自主的にやっているかのように書かれているんですけど実際は違います。主人公はどちらかというと本当にやる気がない、あるいは不作為な人間で、受動的に生きていたらああなったのです。

 

母親の葬式の次の日に会った女というのも、見ず知らずではなくて知り合いだし、映画に行ったのだって本人が行こうとしたわけではなくその女に誘われたからです。人を殺害したのだって、ここは話が長くなるからだいぶはしょりますが、まぁ計画的な犯行というよりは匕首(鍔のない刃物)を持ったアラビア人に対してとっさに銃を撃ってしまったからです。

 

じゃあなんでそんな基本的に無害な人間が死刑にさせられるの?というと、この主人公。一切の事に無気力で、取り調べで話すのも面倒、反論するのも面倒、法廷に出るのも面倒、と特に反抗しないんですね。それで新聞屋とかに少し盛られた記事を書かれて周りの反感買いまくり、でも特に言い返す気もなしに...となし崩し的に死刑になってしまいます。別に本人が死刑になりたかった訳ではないのです。

 

たしか舞台は20世紀前半のフランスで、当時の司法のシステムは全然わかりませんが、この事件を聞いた直後の弁護士は「数年で出てこられるだろう」といった旨を言っていましたし、そこまで罪が重くなかったのでしょう。それがなんで死刑になるのか、その時代の死刑というものがどれぐらいの重さであったのかは知りませんが、どうしてそうなってしまったのか。その理由は、彼に人間としての情というものが特にないからです。

ポイントは母の葬式で泣かなかったこと。最初あらすじで「母の死の翌日海水浴〜」みたいなのを読んで、多くの人は「は?なんだこいつ」と思ったでしょう。恐らく、劇中の検察や傍聴人、新聞屋も同じように煽られたんでしょう。そうして更生の余地のない極悪人のように裁かれるのです。
当の本人は激しく反論せず、法廷や留置場の中で「どうでもいいから早く帰りたいなぁ」だとか「婚約者のいやらしいこと」だとかを考えています。

この主人公ムルソーがどんな人間なのかは、第1章のこんな部分によく出ていると思います。
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夕方、マリイが誘いに来ると、自分と結婚したいかと尋ねた。私は、それはどっちでもいい事だが、マリイのほうでそう望むなら、結婚してもいいと言った。すると、あなたは私を愛しているか、と聞いてきた。前にいっぺん言ったとおり、それには何の意味もないが、恐らくは君を愛してはいないだろう、と答えた。「じゃあ、なぜあたしと結婚するの?」というから、そんなことは何の重要性も無いのだが、君の方が望むのなら、一緒になっても構わないのだ、と説明した。それに、結婚を要求してきたのは彼女の方で、私の方はそれを受けただけのことだ。すると、結婚というのは重大な問題だ、と彼女は詰め寄ってきたから、私は、違う、と答えた。
マリイはちょっと黙り私をじっと見つめた末、ようやく話し出した。同じような結びつきをした、別の女が、同じような申し込みをして来たら、あなたは承諾するか、とだけ聞いてきた。「もちろんさ」と私は答えた。
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人間というものは、感情に抽象的な意味付けを与えて愛だなんだと言いますが、この主人公ムルソーにはそんなことはどうでも良くて、こんな意味付けは一切せず、重要なのは現在の具体的な欲望(家に帰りたいだとか、ムラムラしただとか)だけなのです。

つまり、多くの人は母親の死で喪に服したりだとか、結婚というものにもう少し意味を見出したりするでしょうが、この人はそんなことはしないのです。ただそれだけの事です。
まぁそれで社会の反感を買って死刑になってしまうんですけど。


こういう話を読むと、無力さを感じるだとか、無気力になるなぁと思います。実際に僕も読後の感想は「なんか、しまり悪いなぁ、やるせないなぁ」という気分だったんですけど、巻末の白井浩司氏の解説を読んで、ハッとさせられるものがありました。
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絶望的な外観を呈しているにしても、この小説は決して絶望の書物ではない。それについては、カミュが【異邦人】の英語版に寄せた自序(1955年1月)が明快な解明を与えるだろう。
「......母親の葬儀で涙を流さない人間は、全てこの社会で死刑を宣告される恐れがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるより他はないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、ある以上のことを言ったり、感じること以上のことを行ったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところと違って、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間のクズではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在すること、感じることとの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することは出来ないだろう.........」
ムルソーは、否定的で虚無的な人間に見える。しかし彼は一つの真理のために死ぬことを承諾したのだ。人間とは無意味な存在であり、全てが無償である、という命題は、到達点でなくて出発点であることを知らなければならない。ムルソーはまさに、ある積極性を内に秘めた人間なのだ。
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なるほど、ニヒリズムは到達点じゃなくて、それを理解した上で乗り越えようという考えは、実存主義者のよく言うところですね。(サルトルと違って、カミュは本人曰く実存主義者ではないらしいですが。)

いやだからそれが難しいんだって......普通の人には出来ないんだって......

という愚痴は置いといて、というかそもそも僕はいろんな物事に意味を見出す人間なので、どちらかというとニヒリズム反対派です。自然を見て機械論的な立場を取るというよりは、それを見て1句詠もうと思う人間なのです。

まぁそんな事は好みなんでどうでもいいですが、葬儀は泣いた方がいいですね。そんな事言わなくてもどうせ泣くんでしょうが、泣かないと世間体にもマズイんです。そういうことを演じたくないという人はどうぞムルソーみたいに振る舞ってください。恐らく現代の日本なら、そんなことで死刑にはならないでしょう。