浪人失格

恥の多い生涯を送ってきました。徒然なるままに日々の考えを記録していきたいと思います。

聖人なんて50人に1人

「聖人」と呼べる人間は、身の回りにいますか?この「聖人」とは「都合のいい人間」とかではまったくありません、奇跡を起こせる人でもありません、聖人と呼べるほど器の広い人です。

高校の時の同期については、学年が160人で少なめかつ120人とは中学からの付き合いだったので割と深く知ることが出来ましたが、その中で「聖人」と言えるような人は2人ないし3人程度でした。生物の植生調査では、区画全部を調べることは大変ですから、一部のあるブロックの中に限って特定の植物の占める割合だったりを調査するみたいなこともありますし、それと同じように、この世の中においても聖人と言えるほど器の広い人間は50人に1人ぐらいでしょう。まぁ青年期の男子からしかサンプリングしていないのでデータに偏りはあるっちゃあると思いますけど。


今回はそんな聖人の素晴らしさを説く回ではありません。そんな聖人じゃない人だらけの世の中でどのように過ごしていくかという話です。

聖人が50人に1人な一方で、本当にどうしようもない人間も50人に1人かそこらしかいなくて、大多数の人間は聖人すぎもせず、悪人すぎもしないのです。これがまた面倒くさいのです。

論理のよくある問題で「正直村と嘘つき村」という問題があります。正直村の人間は正直なことしか言わないし、嘘つき村の人間は本当と反対のことしか言いません。正直村で暮すのはもちろん簡単ですが、嘘つき村で暮らすのも、彼らはある意味嘘しかつかないという意味では正直なので、それを分かっていれば簡単な訳です。
じゃあどういう時がめんどくさいのか?「話している相手が正直村の人か嘘つき村の人かわからない時」は非常に難しいんですよね。僕らの世の中だってそうです。性善説だとか、性悪説だとかは本当にくだらなくて、どっちもいるし、逆にパラメータが凄い極端に振り切れた人間なんてそんないないし、そういう集落もなかなか存在しないのです。

正直村の人間に「あなたは正直ですか?」と聞くと「正直です」と答えるでしょうし、嘘つき村の人間に「あなたは正直ですか?」と聞くと、やはり「正直です」と答えるでしょう。
あなたはその「正直です」という声を聞いて、正直村の人間ではなくて嘘つき村の人間も正直なのだと思い込んでしまうのが恐ろしいことです。

僕らの世界に生きる人間だって同じです、初対面でいきなり中指を立ててくる人間なんて多少の常識さえ持っている人であればいないですし、最初はだいたい丁寧な物腰をしてきます。しかしそれを見て「この人は大変素晴らしい人だ!」と感銘を受けて、「この人は聖人に違いない!」と思うのはかなり危ない橋を渡っているようなものです。


じゃあみんな信用出来ないから誰も信じるな?そんな訳がないでしょう。嘘つき村の人でも嘘つき村出身だと知るだけでうまく付き合えます。

例えば、先々月ぐらいにある気心のしれた友人と「明日は11時に集合ね!」と約束しあって寝ましたが、彼も僕も「相手は絶対寝坊する」と察しあって二人とも昼過ぎに絶望の起床をしました。


要するに、世の中はくだらない人間もくだらなくない人間もいて、「相手がどういう所が良くて、どういう所が悪いのか」ということを知るのが一番大切なことで、それを知りさえすればどんな人間とも付き合っていけるのです。もちろん、それでも人は変わってしまうものなので注意しなきゃいけませんが。

そして、次に大切なことは、最初の丁寧な物腰を見て「あぁこの人はたいへん素晴らしい人間に違いない!」と思って、その人に「聖人」であることを要求してはいけないということです。同様に、少し無礼な態度をしている人がいたって、「あいつはどうしようもないクズ人間だ」と思い込むのもあまり良くないことです。
こういう思い違いの中で相手を見たって、それは実像なんかじゃなく完全に虚像、ないし仮象であって、その思いが外れたところで「お前は聖人だと信じていたのにそういうことする人間だったんだな!」と怒るのは大変に筋違いで、そういうとき間違っていたのは相手ではなく自分の解釈なのです。(まぁ流石に意図的に騙そうとしてくる詐欺師とかは例外ですけどね)


相手の解釈で自分が理解されるのはとても度し難いことで、なんといっても自分の解釈はそれとは違うに決まっているじゃないですか。