浪人失格

恥の多い生涯を送ってきました。徒然なるままに日々の考えを記録していきたいと思います。

空と山と人間

そういえば、先日高尾山に登ってきました。19歳を迎える前になぜ山を登るのか。なぜでしょう。

「そこに山があるから」

誰かがそう言いました。が、僕の生活している範囲の「そこ」には山はありません。もしかしたら「僕が行くところだから」山があるような気さえしますが、これは奇を衒った考えであって、普通に山があるところに僕が行っているだけです。

時期が時期なら混雑しているでしょうが、たまたま人が少なく、登山道を見渡しても僕一人みたいなタイミングも少なくなかったです。そこで「この山には僕しかいないのかもしれない」或いは「この世には僕しかいないのかもしれない」という実感に溺れ、悦に浸る。

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人と離れるのも気持ちいい、でも人と会うのも悪くない。こんな圧倒的な孤独の中で他の登山者と出くわす。ご老人の方やトレーニングをしている方、そして私服の母娘。
彼らはどういった思いや事情で山に登っているのだろう。浅い理由かもしれない、深い理由があるのかもしれない。ただ存在するのはイマジネーションで、特に詮索するような真似はしないが、とりあえず言えることといえば、みんな明るく挨拶をしてくれるということです。

山での挨拶は、孤独を求めて山に来た者達にとっては断食明けみたいなもので、やはりそれでも潜在意識の中に佇んでいた失われることのない他者との繋がりへの探求を再び意識させられます。この瞬間だけは人は素直になれます。
普段生きているなかで、人間の生活は役割でギチギチに拘束されていて、上下関係だとかで気を使うことはあるでしょうが、山にはそんなアーティフィシャルなルールは存在しません。みんな平等な1人の人間にすぎません。

山に来ると、人はなぜか故郷に帰ってきたような気分になります。人間の故郷とは自然なのでしょうか?
僕は生まれつき大阪、東京と都会暮らしというものしかしてきた事はないので、なぜ自然と触れ合うことで「帰ってきた気分」になるんでしょうか。

人間が二足歩行を始める前から遺伝子に刻まれた感性なんでしょうか?
それとも、そういう風に「刷り込まれ」てきたのだろうか?(たとえば、美女と野獣と聞いて、美女は見たことあるかもしれませんが、野獣は見たことがない人は多いかもしれません。でもなぜか「獰猛」「危険」「強い」といったイメージは持っています。この「見たことないのに知っている」イメージはどこから来たのでしょう、まさに「刷り込み」に他ならないと僕は思いますが、これ以上は話が脱線するので避けます)

大体、人間が守ろうとしている自然とは人間にとって都合のいい自然、つまり不自然です。ただの山道ならまだしも高尾山にいったっては一号路みたいにコンクリートづくしの馬鹿げたものだってあります。

まぁこの自然で「癒されるな」と思うのなら、癒されておけばいいのです。プラセボ万歳!