浪人失格

恥の多い生涯を送ってきました。徒然なるままに日々の考えを記録していきたいと思います。

人は自己満足で死ねるのか

昨日最後にチョロッと話したこと、「自己満足と、実際の得のどちらを優先するべきか」について考えます。
最近ずっと悩んでいることで、あることを自分の美学によって守る使命感によって、たとえそれで自分が損をするとしても続けてしまう、みたいな事をするべきなのか否かということです。
自己満足とは生きる活力ですが、ある時それによって自分の首を締められてしまい最終的に死に至ることはありませんか?


昨日考えた例で言うと

①目の前に毎日おいしそうな豚のステーキが差し出される
②ある男はイスラム教徒であるから食べないことにしようときめる
③それを我慢し続けた上で死に至る

こういうパターンです。豚を食べずに餓死をすると殉教した訳だから個人の満足は満たされますが、それが果たして褒められる行為なのかが分からない。いや、褒められるかどうかは今回問題ではありません、これはその人自身の問題なのであるから、褒められるかどうかなんて関係ないのです。

普通は自己満足を導く「自分ルール」と現実の環境はそれほど対立しません。イスラム教徒はわざわざ豚肉を食べなくても、他に食べ物があるのでそれを食べて生きて行けるし、自分ルールを犯すことなく日々の生活を送れるのです。

しかし上記のような状況に陥った時にとる行動について考えてみましょう

パターン1: 自分ルールに生きて死ぬ
文字通りさっきのように死にます。目先の生理的な欲求にとらわれずに死ぬということで人間の尊厳は守られます。そして人間の身体は、不幸にも精神と違って物質的なものなので滅びてしまうのですが。
パターン2: 新たな自分ルールを作成
「本当に死にそうなんだからこれを食べて生きながらえるのを神様が邪魔するわけが無い」とか「日本にいるから神様の目は届いていない」とか新たに自分ルールを作成して食べてしまうパターンです。

昨日これに関してアンケートを取りました。「我慢せず食べる」「我慢してから食べる」「食べずに餓死する」の三択で、最多得票は「我慢してから食べる」でした。
しかし、これは日本人にアンケートをとったことが多分に影響していると思います。イスラム圏の方々にアンケートをとったならばかなり変わってくるのではないでしょうか。
なぜかというと、これに答えた日本人は、おおよそイスラム教徒ではなくて、このイスラム教徒に広がる宗教という名の「自分ルール」を共有していないからです。

「自分ルール」というものの何が難しいかというと、他人に理解されないのです。さっきの例をみた日本人が何を思うかというと、少々口が悪いですが「なんで食べないの、馬鹿でしょ」と思うかもしれません。

こういうことはしょっちゅうあります。例えば「先生に言いつけるからね!」というのは任意の小学生にとって、この言葉は死刑宣告なのです。
実際には死にはしないんですけど、本人には世界が終わるかのように思えることがあります。第3者はこれを見て笑うでしょう。
電通の高橋まつりさんが自殺した事件。当時はあとのまつりとかけて「あとの高橋まつりwwwガハハ」と笑っていましたが、今になってようやくそれがなんて不謹慎な事なんだと思いました。僕は何かと文句をつけて待ったをかけてくるこういった種の人間が苦手なため滅多に使うことのない、この「不謹慎」という言葉を、今ここで使うのは自分なりの贖罪です。
ある人は言います「自殺するぐらいなら会社辞めればいいじゃんw」。退社か自殺。この明らかに前者を選ぶだろうと多くの人が考える選択肢で、彼女は後者を選びました。
退社によって今まで作り上げてきた自分のキャリアを壊すということが、どんなに恐ろしいことであったのかは想像がつきませんし、実際に彼女がどのように考えてその決断に至ったのかは誰にも理解は出来ないし、語りえないことです。彼女にとっての日々の「死刑宣告」は本当に重いものであったということしか、僕にはわかりません。

物語によくあらわれる復讐にとらわれた登場人物。彼らは総じて主人公に窘められる結末になります。
「その人生を無駄にしてまで復讐なんかに命をかけるな」
そう説教されますが、なぜこんなことで納得するのでしょう。復讐に命をかけようと思う程に酷い恨みを持つのなら、復讐するしかない。彼が求めるものは「やめろ」という否定ではなくて「俺はとめない」という不干渉、あるいは同情かさらに言えば賛同なのではないでしょうか。彼らには彼らなりの理論があるのです。自分がその論理を理解していない、或いはそれによって被害を被るのでなければ、その行動を止めることは許されようがないと感じます。

自分ルールを満たせないことはただただ苦痛で、その理論はおおよそその人にしか分からない。なんて孤独な戦いなんでしょう。心のどこかでその「理解者」を求める葛藤でもあるのでしょう。

心の声に従って、自己満足に死ぬ。美しいことではありませんか?ただ、それは罪のない人々に迷惑をかけない限りでなければなりません。

僕がそのような状況に陥った時に殉死するか、できるかは知りませんが、そうやって殉死した人を見ると、僕は尊いなぁと思います。もちろん、実利を守るためにやむなく自分の信条を曲げる人も、尊いなぁと思います。


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ちなみに、僕は自分ルールを破りまくってもうすぐ19年目を迎えます。しかし、破れないルールもあって、それに悩んでいるのです。
「1日50000時間勉強する」というルールはそもそも守る気などないのです。
(次作「自分ルールの流儀」に続く(かも))