浪人失格

恥の多い生涯を送ってきました。徒然なるままに日々の考えを記録していきたいと思います。

人を惑わす第3の選択肢

「今日はトンカツにしようか、カレーにしようか。うーんトンカツ食べたいなぁ、でもカレーも食べたい。しょうがない、ラーメンを食べに行こう!」

みたいなこと、ありませんか?
カツカレーならまだわかるけど、ラーメン。どこからその選択肢出てきたんだよみたいな。でもそれが出てきたら案外それにしちゃうことが多いんですよね。

 

「あー数学やんなきゃ、あ、英語もやんなきゃ。うーん、眠いな。そうだ、よし、寝よう!」

行動は信心を強かに語る

最近、言ってなかったんですけど、イスラム教のコーランについてなんとなく学んでいまして、そのコーランにはよく「イスラム教徒は妻に平等に接さなきゃいけないけどムハンマドはそうしなくても可」だったり「ムハンマドの妻は裏切ったら地獄で倍痛い目見るぞ」、「ムハンマドは部下の妻を寝とっても可」であったりなんじゃこのムハンマドに都合のいいような特別扱い!みたいなのが結構ありまして、こういうの誰が信じるんだ。神からの言葉じゃなくてムハンマドのいいように神のお告げを捏造してるだけじゃん。

と思ったわけですね。ムハンマドだって神からのお告げを聞いてこれを信者に伝えるというスタンスなわけですが、最近はこういうのを信じるのも何となくわかるなぁという気もします。

ムハンマドは神からの啓示を受けた後メッカで布教しようとしますが、周りは当時多神教だから当然迫害されるわけで、そうしてメディナに移動して、そこで勢力を拡大して再びメッカの多神教勢と戦うわけです。
これは大変な苦労だったでしょう、なんでそこまでして争ったのかというと、やはり本当に神の啓示を受けたのかもしれない!!と信じてしまうのもわかります。

他に似たような例として有名なのはパウロですが、パウロはイエスを処刑する時はキリスト教に敵対していたユダヤ教徒でした。にもかかわらず、このパウロこそが回心してキリスト教を広めることになるのです。(パウロが回心するシーンは、目からウロコという慣用句の語源で有名ですね)それも周りから相当の迫害を受けながら。それでもなんで熱心に異邦人伝導を続けていたのかというと、やはり天からイエスの声を聞いたのかも知れません。


黙って毎日自習室にこもっている受験生は本当に受かりたいんでしょう。口だけ言って家で寝ている僕とどちらが信用できるかというと、一目瞭然ですね。


ps.今回の記事は宗教をバカにする趣旨なんかではありません、爆撃しないで下さいお願いします。

そんなにスマホが好きならスマホでも食ってろ

僕の中学時代ーーーようやくスマホが広がり始めた頃の時代でしょうか。友達と渋谷センター街のマックで遊んでいたら、女子高生だか女子大生の2人組がやってきて、着席するやいなやすぐスマホを開いて、そのまま無言でスマホをいじるだけいじって1時間。「キャー今日は楽しかったね!」と言って別れて1人が帰っていきました。

一部始終を僕と同じく見ていた友達はいいました「何が楽しかったんだろうね。」と。

 

ああ、なんかこの題材で漢文とかかけそう。考えさせられます。

 

ちなみに僕が「考えさせられます」とか「思うところがあります」と言う時は、実際に何も考えてないことが多いです。

ロングスリーパーの憂鬱

これを書いている現在(7/15 10:00)、ここ26時間中22時間睡眠していました。本当にロングスリーパーというものは人生が険しい。

まず夏休みは12時間勉強とか言ってますけど、ねる準備をして、寝て、起きる準備をしていたらもう活動できる時間12時間切ってるから!!そこからご飯とか風呂とか移動時間を除くとほとんど残らない。

ロングスリーパーの辛さは、普通の人にはわかりません。

友達の家に文化祭の打ち上げの後に行って、ゲームをするも日付変わる前に爆睡。別の友達の実家にお呼ばれしてまた徹夜で映画を見よう!みたいな話をするもまたまた1本目終わったぐらいで爆睡。ただ徹麻だけは起きられるので謎。前日昼寝もせずに徹夜でその後普通にまた1日の生活を始めるということは、中3ぐらいの時ならできたんですけど、高校入って以来は1回も成功していません。
寝落ちするのが早いだけでなく、起きるのも遅い。今年はだいぶ午前中に起きている方ですが、去年はほとんど午後に起きています。夏休みも、直前期もそうで毎日11時間前後は寝てました。昼に起きるとなにやっても、すぐ夜になりますから辛い、夜になって「ああ今日全然勉強出来てないなぁ」と思って少し夜中に勉強すると次の日の起床時間が更に二三時間遅れるので、早く寝ようと思って寝ても、次の日に早く起きるかは分からない。うーんこの。
そうして去年の夏は、友達と朝集まって勉強しようの会的なやつを25回ぐらい中20回ぐらい寝ぶっちするという極悪行為に走りました。
睡眠時間だって8時間の日とかは確実に昼寝をします。10時間以上寝てる日は昼寝をしないとおもっていたら、先日無事に昼寝をしてしまいました。なぜだ......

僕がこうなったのは高3からで、案外高2までは遅刻ほぼ0の優良児でした。高3になってからなんでこうなったのかというと、授業が選択になったため30コマ中18コマしか無かったので家で朝起きなくても良くなったからだと思いますし、学校にいったらいったで一年中学校の人工芝生の上で食って遊んで寝てました。そうしたら目覚しいほど睡眠時間が伸びていきました!あらーおそろしい。


睡眠障害メイツは僕以外にも結構知り合いにいます。そういう人たちとはルサンチマンで盛り上がります。
入試とかって、聴覚障害でリスニング免除とかは有名ですが、発達障害だとかだと試験時間延長になるというのをご存知でしょうか。それを睡眠障害にも適応しろ!!!と主張したいのです。そんな人達と会話をすると

睡眠障害A「この睡眠時間の中では日本で1番賢い」
睡眠障害B「ほんと睡眠時間短いヤツってズルだよな、恥ずかしくないのかな」

みたいな、あーーーーーーーー。

 

 

神様。なんで去年二年分は寝たのに、今年は寝なくていいどころか、また体は二年分寝ようと欲しているのでしょうか??

「行けたら行く」は80%来ない

友達を何かしらに誘った時に「行けたら行く」と言ってくる人間にいますよね、実際そう言われると、その人が来ても来なくてもどちらでも大丈夫なように予定を組まなければ行けないので面倒くさい。
そして恐らく、行けたら行くという人間は行く気がないんですけど、社交辞令的にそう言ってくるし、聞いた側もそれを聞かなければなりません。あーめんどくさい。

僕の知り合いにもこういう予定ブレイカーがいました。「わーそれ面白そう」「行きたい」「〇〇良いよね、わかる」と肯定的な意見をいって来そうアピールをしつつ実際に行くかと聞くと、口癖の伝家の宝刀「行けたら行く」。お前もともと予定あける気ないだろクソ。
予定というものはですね、行く人が増えれば増えるほどスケジュールが合わなくなるんですよ。二三人ならまだしも五人とかになってくると、平日はもちろん、夏休みとかであってもなかなかみんなの都合があわない。それで結局企画倒れ...みたいなことは腐るほどあります。

そういう時どういう事が有効かと言うと、「行く人より先に行く日程、行く日程より先に行く場所を決める」という作戦ですね。先に日程決めといて、後から参加する人の予定を聞いて、無理なさそうならそちらに合わせて、無理であったらバッサリ諦める。人が集まらなくても、一人でも行く、それぐらいの心意気で行きましょう!

ちなみに、「行けたら行く」は本当に便利で、行ける雰囲気をだしつつドタキャンすると評価が下がるのに、こう言っておきつつ実際に行くと評価が少し上がるのです。


PS.久しぶりの友人と何かしらの機会で話す時に「今度遊びたいね!」「今度また〇〇で集まろうね!」等と言ってくる輩がいますが、これは社交辞令で、言うだけ言って行かないことも多いです。特に多くの人間は大学に入ってから「今度飯でも行こう!」とばかり画一的なことを言ってきますね、酔わせてワンちゃんとか狙ってるんでしょうか、ないです。未成年です。そんなに安い男ではない!

お母さんの葬式で泣かないと死刑にされる本

けっこう前になりますが、アルベール・カミュの異邦人という本を読みました。カミュといえばよくサルトルと並べられる人ですね。

 

あらすじを読んでみましょう。
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母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑い転げ、友人の女の出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれる事だけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作。
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これを見た瞬間、僕は「あ、この主人公って頭のおかしい暴力的なクズ人間なのね。」と思ったんですけど、読んでびっくり、全然そんな事はないんですね。あらすじではこういう行為を全部主人公が自主的にやっているかのように書かれているんですけど実際は違います。主人公はどちらかというと本当にやる気がない、あるいは不作為な人間で、受動的に生きていたらああなったのです。

 

母親の葬式の次の日に会った女というのも、見ず知らずではなくて知り合いだし、映画に行ったのだって本人が行こうとしたわけではなくその女に誘われたからです。人を殺害したのだって、ここは話が長くなるからだいぶはしょりますが、まぁ計画的な犯行というよりは匕首(鍔のない刃物)を持ったアラビア人に対してとっさに銃を撃ってしまったからです。

 

じゃあなんでそんな基本的に無害な人間が死刑にさせられるの?というと、この主人公。一切の事に無気力で、取り調べで話すのも面倒、反論するのも面倒、法廷に出るのも面倒、と特に反抗しないんですね。それで新聞屋とかに少し盛られた記事を書かれて周りの反感買いまくり、でも特に言い返す気もなしに...となし崩し的に死刑になってしまいます。別に本人が死刑になりたかった訳ではないのです。

 

たしか舞台は20世紀前半のフランスで、当時の司法のシステムは全然わかりませんが、この事件を聞いた直後の弁護士は「数年で出てこられるだろう」といった旨を言っていましたし、そこまで罪が重くなかったのでしょう。それがなんで死刑になるのか、その時代の死刑というものがどれぐらいの重さであったのかは知りませんが、どうしてそうなってしまったのか。その理由は、彼に人間としての情というものが特にないからです。

ポイントは母の葬式で泣かなかったこと。最初あらすじで「母の死の翌日海水浴〜」みたいなのを読んで、多くの人は「は?なんだこいつ」と思ったでしょう。恐らく、劇中の検察や傍聴人、新聞屋も同じように煽られたんでしょう。そうして更生の余地のない極悪人のように裁かれるのです。
当の本人は激しく反論せず、法廷や留置場の中で「どうでもいいから早く帰りたいなぁ」だとか「婚約者のいやらしいこと」だとかを考えています。

この主人公ムルソーがどんな人間なのかは、第1章のこんな部分によく出ていると思います。
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夕方、マリイが誘いに来ると、自分と結婚したいかと尋ねた。私は、それはどっちでもいい事だが、マリイのほうでそう望むなら、結婚してもいいと言った。すると、あなたは私を愛しているか、と聞いてきた。前にいっぺん言ったとおり、それには何の意味もないが、恐らくは君を愛してはいないだろう、と答えた。「じゃあ、なぜあたしと結婚するの?」というから、そんなことは何の重要性も無いのだが、君の方が望むのなら、一緒になっても構わないのだ、と説明した。それに、結婚を要求してきたのは彼女の方で、私の方はそれを受けただけのことだ。すると、結婚というのは重大な問題だ、と彼女は詰め寄ってきたから、私は、違う、と答えた。
マリイはちょっと黙り私をじっと見つめた末、ようやく話し出した。同じような結びつきをした、別の女が、同じような申し込みをして来たら、あなたは承諾するか、とだけ聞いてきた。「もちろんさ」と私は答えた。
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人間というものは、感情に抽象的な意味付けを与えて愛だなんだと言いますが、この主人公ムルソーにはそんなことはどうでも良くて、こんな意味付けは一切せず、重要なのは現在の具体的な欲望(家に帰りたいだとか、ムラムラしただとか)だけなのです。

つまり、多くの人は母親の死で喪に服したりだとか、結婚というものにもう少し意味を見出したりするでしょうが、この人はそんなことはしないのです。ただそれだけの事です。
まぁそれで社会の反感を買って死刑になってしまうんですけど。


こういう話を読むと、無力さを感じるだとか、無気力になるなぁと思います。実際に僕も読後の感想は「なんか、しまり悪いなぁ、やるせないなぁ」という気分だったんですけど、巻末の白井浩司氏の解説を読んで、ハッとさせられるものがありました。
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絶望的な外観を呈しているにしても、この小説は決して絶望の書物ではない。それについては、カミュが【異邦人】の英語版に寄せた自序(1955年1月)が明快な解明を与えるだろう。
「......母親の葬儀で涙を流さない人間は、全てこの社会で死刑を宣告される恐れがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるより他はないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、ある以上のことを言ったり、感じること以上のことを行ったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところと違って、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間のクズではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在すること、感じることとの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することは出来ないだろう.........」
ムルソーは、否定的で虚無的な人間に見える。しかし彼は一つの真理のために死ぬことを承諾したのだ。人間とは無意味な存在であり、全てが無償である、という命題は、到達点でなくて出発点であることを知らなければならない。ムルソーはまさに、ある積極性を内に秘めた人間なのだ。
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なるほど、ニヒリズムは到達点じゃなくて、それを理解した上で乗り越えようという考えは、実存主義者のよく言うところですね。(サルトルと違って、カミュは本人曰く実存主義者ではないらしいですが。)

いやだからそれが難しいんだって......普通の人には出来ないんだって......

という愚痴は置いといて、というかそもそも僕はいろんな物事に意味を見出す人間なので、どちらかというとニヒリズム反対派です。自然を見て機械論的な立場を取るというよりは、それを見て1句詠もうと思う人間なのです。

まぁそんな事は好みなんでどうでもいいですが、葬儀は泣いた方がいいですね。そんな事言わなくてもどうせ泣くんでしょうが、泣かないと世間体にもマズイんです。そういうことを演じたくないという人はどうぞムルソーみたいに振る舞ってください。恐らく現代の日本なら、そんなことで死刑にはならないでしょう。

夜道はメガネを外して歩いてみよう

小学校のとき、視力が悪いという話をすると、メガネをはずすように友達によびかけられて、その状態で「これ何本に見える?」と言いながら友達は指を何本か立てて見せてきました。

視力がいい人は勘違いしがちなんですけど、視力が悪いというのは物が見えないというよりは、ひたすらにぼやけているのです。
視力検査で丸いわかっかがあってどちらの方向が欠けてますかみたいなやつがありますけど、視力が悪くても一応はなにかしら黒い輪っかがあること自体はわかって、にも関わらずぼやけているのでどこが欠けているのかがいまいちわからないといった感じ。
だから、友達が立てたゆび自体が見えないのではなくて、ただぼやけているだけなので、普通に友達が立てている本数なんか分かるんですよ。そりゃ遠いところにいたらわからないんですけど。

視力がいい人に分かってもらえるように例えるならそうですね。人差し指を立てて、鼻から5センチぐらいの位置にもってきてください。そしてそこにピントを合わせた状態で指をゆっくり視界から外すと、目の前にはぼやけた世界が広がります。だいたいこんな感じでしょうか。

さて、ここまではメガネをかけてない民に対する前置きで、ようやく本題に入れます、メガネを外した人はまぁ要するにいい感じに視界がぼやけますから、それで夜道を歩くと、いい感じに信号だったり、街灯だったりがなんか月みたいにみえて、それがたくさんフワフワしている様はなかなかに面白いですよ。

 

未知なる世界に続いてるみたいで、雰囲気だけで酔える。高揚した気分で電柱を思いっきり殴ってみると、なんていうか、その、普通に痛い。