浪人失格

恥の多い生涯を送ってきました。徒然なるままに日々の考えを記録していきたいと思います。

電車内で隣にJKが座った時

自分が社会から第一印象としてどう見られているのか、というのを確かめる方法というのはいろいろあります。

例えば、歩いていて警官に職務質問をされたとすれば、それは「見るからに怪しい」人間であることを示すことになるでしょう。

もっと簡単な方法で、若干すいている時間帯の電車でこれを確認することができます。
自分の隣に若い女性が座ってきた時は、それは即ち自分が「社会的にヤバそう、危なそう」な人間でないことを示すからです。

もっと言えば、4人座席で、一番端に自分、もう片方の端に別の男、間の2席が空席のときに、次に乗ってきた女子高生が、自分側に座った瞬間、「あ、自分って認められてるんだな」という安心感に、自然と包まれます。

君走るの上手いねぇ!

昨日、東洋大の桐生さんが日本人初の100メートル走9秒代をたたき出しました。素晴らしいですね。

桐生さんは数年前から9秒代を出すのではと注目されていて、僕も中3の時、陸上部だったので顧問の先生からチケットをいただいて、味の素スタジアムで開かれた、桐生さんが出場していた大会を見に行ったことがあります。
その時はまぁ9秒代は出ませんでしたが、今回見事達成したとのことで、なんとも、おめでとうございます。


話はここで結構変わるんですが、日曜日にテレビをつけていたら、割と競馬が放送されていることも多いと思いますが、それを先日見ていると、G3だかのカップで、最後の600mを34秒だかで走っていると聞いて驚きました。人間の2-3倍ぐらいの速さですね。

こりゃ人間は動物にゃ走ることで敵わない。そんなことを思いながら、足の早い動物について何気なく調べてみました。グリズリーみたいな体格がデカくてのろそうなクマですら時速60キロぐらいは優に出せますし、あんな体のバランスの悪いダチョウでも時速70キロとかで走るようで、なんというかビックリですね

ウサイン・ボルトのトップスピードが時速45キロあるかどうかなので、動物界というのはやはりレベルが段違いなのです。

ここで、足が早い動物で有名なチーターの記述についてみてみましょう

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チーターが地上最速の動物で、最高時速は75マイル(時速約121km)にもなります。トップスピードで100m程度走ることができ、静止状態からわずか5秒で時速62マイル(時速約99.8km)に達することができます。これはほとんどのスポーツカーよりも速い加速です。
ーーーーーーーーー(出典略)

すげえええええええ

でもね、結局彼らはそういう動物「である」というだけなのです。

桐生が凄いのは、人間なのに、日本人なのに9秒代を出したということです。

別にチーターをトラックで走らせてウン秒代が出たからと言ってそんなことは当たり前で、どうでもいいことで、チーターは大人しく檻にでも入ってればいいんです。

チーターはスポーツカーより加速性能があっても、スポーツカーに轢かれると負けてしまう😢

なぜ僕は自ら自分の恥ずかしい話をするのか

僕は詮索というものが苦手です。

相手が、本人から晒してくれた情報を見聞きするのは好きですが、自分からわざわざ相手について隠れて知ろうとする行為というものを、その内容の良い悪いを別として、あまり好きではありません。

僕は、自分の恥ずかしいことをすぐに相手に公開してしまう癖があります。
僕を見た多くの人は、「なんでこの人は自分のことを、それも恥ずかしいことも含めて自分からわざわざ言っちゃうんだろうか」と思うかもしれません。

僕が受けた数少ない駿台の英語の授業の中で偶然文章に出てきた話で、自分について語らなければいけない時、どれほど真実を語ろうとしても、結局それは本当の姿でもないし、何を語ったところで、自分に都合が悪いことを語らないことによって、ある意味自分というものを偽装してしまうものだということを知ったことが大きいでしょう。

たしかに、人は自分に都合の悪い事はあまり言いませんし、それを隠すことで自分をよく見せようと思うのかもしれませんが、僕の場合は逆です。
自分の弱点や悪いところをすぐにみせびらかしてしまいます。

弱みを相手に公開する事で「こいつ別に敵じゃないなぁ」と思ってもらえるとも思うし、第一、隠していてそれが見つかってしまうのよりは、自分から言った方が清々しいし、自分から言ってしまえば相手はそれをあまり悪くは思わないものなのです。

僕には羞恥心が欠落しているのかもしれません。プライドがないのかも知れません。でもそんなことはどうでもいいと僕が思う理由は、無駄にカッコツケている日々は、今の生活以上に大変だと思うし、単純につまらないと思うからです。

他人の恥ずかしいことを本人の口から聞きたいし、他人のカッコイイところも本人の口から聞きたい。相手がそれを言ってくれるぐらいの仲にはなってみたいものですね。

 

漏れる。漏らす。漏らせ。すべてを受け止めたいから。

公園で、日陰のベンチに座って、揺れている木の影を眺めているのはなかなかに面白い。

木漏れ日があるのは、まさに木漏れない日があるから。植物を育てるのに役立っているのは木漏れない日なのかと思うといろいろと悩ましい。

光に吸い寄せられるイカの気持ち

この世の多くの動物は、明るいものに向かって近づいて行く習性があって、これを走光性と呼びます。

小学校の時に習うことですが、夜に電灯の周りにむらがる蛾だとかが走光性の例に当たります。

チョウチンアンコウは何故頭にチョウチンを垂らすのか。深海と言えば、しんかい6500でかつて海に潜った研究者だか技術者がインタビューで「深海での潜水を体験した後は、暗いとはあまり言わなくなった。地上では暗いと思っても何かしかの光があって、深海にはそれがない」といったような内容を語っていたような気がします。
チョウチンアンコウはそこを狙います。頭部の誘引突起で光を発することで、生物をおびき寄せて捕食するのです。

似たようなことは人間だってやっています。イカ漁をご存知でしょうか。真夜中の海に光を灯し、集まってきたイカを捕獲します。

悲しいかな。旨いんですよねイカは。暗闇の中に見つけた文字通り一筋の希望の光、そこに期待して頑張るものの、全ては罠で全部人間の手のひらの上な訳です。


世の中に多く溢れるいわゆる「釣り行為」(ひっかけという意味で)というもので、動物がほかの動物に、人間が動物に仕掛けるという例を今上げましたが、当然人間だって釣られてしまいます。

自分が今正しいと思ってとっかかろうとしていることはもしかしたら誰かに仕組まれた壮大な釣りかもしれない。でも、人間はイカでも蛾でもありませんから、自分の意志で近付くことも避けることも出来るのです!

そう、1番良くないと思うのは、イカのように全てを信じて吸い寄せられていくことももちろんそうですが、全てを罠だと思い込んで失望することではないでしょうか。全てを釣りだと疑って逃げ去ろうとするのは人間ではなくて、ミミズです。

 

ミミズは負の走光性を持っていて、決まって光から離れようとします。

不倫の感想1位、「どうでもいい」

芸能人が不倫とかしますよね。毎日毎日テレビのワイドショーはこんな事を取り上げていますが、8割ぐらいの人の感想は「許せない」ではなくて「どうでもいい」だと思います。謝罪?しなくていいよ当人達だけで解決してくれ。

 

というかそれ日本全国に放送することなの?

不倫したことよりも、そういうクソどうでもいいことが全国に放送されて、視聴者の目と耳に半ば強制的に情報を送り付けられているということ自体を申し訳なく思って欲しい。

叩いてる人もなんなんでしょうね?その人が不倫していたとして、自分がなにか不利益を被るんでしょうか?

 

世の中の人間、暇だなぁ。

戦う前から勝負が決まりきった試合

戦う前から結果が知れてる戦いってよくあるじゃないですか。
フィクションの世界では劣勢な方が勝つ傾向にありますね。

世の中にはお決まりというものがあって、ドラゴンボールのように少年誌の漫画では、「敵がでてくる→苦戦する→倒す→さらに強い敵が出てくる→以下略」みたいな展開がメジャーですし、ドラゴンクエストで最初に出てくるボスがフルパワーの魔王なんてこともありません。これもお決まりです。

怪獣はほとんどの回でウルトラマンに負けますし、バイキンマンはほとんどの回でアンパンマンに負けます。そしてトムはほとんどの回でジェリーに負けますが、子供の頃はそれでもハラハラドキドキします。

それでは大きくなったらどうでしょう。新しい敵が出てきて、苦戦はするんだけど「どうせ最後は勝つんだろうな」という風に展開が読めてしまうので、ハラハラドキドキ感というのは薄れてしまいます。RPGでも最初の中ボスなんて所詮10レベぐらいでたおせるんだからそれぐらいで突撃しますし、わざわざ魔王対策としてレベル50ぐらいまで上げようとなんてしません。


ああ、先が読めてしまうと、なんてつまらない。漫画を読んでいても「あ、こいつ死ぬな」とか「漫画の構成的にはこの個人戦負けて、団体戦の方で勝つな」とか、「この漫画もうすぐ打ち切りだから、今地区大会だけど、来週には甲子園優勝してるな(或いは、スペインでゴラッソしてるな)」と読めてしまうんです。


ここまではフィクションの話ですが、現実世界でも先というものはある程度読めます。だいたいは優勢な方が勝つのです。

人生がもしある種のゲームだとしたら、しかるべきレベルアップにそって、最終的になんとか勝って幸せになるものかもしれません。そういう姿をドラクエ的と呼ぶことにします。

一方で、昨日今日練習をしたことで甲子園優勝校に野球で勝てるはずもありません。これが現実でしょう。人間というのは隣の芝が青く見えすぎるように生まれているものなので、ドラクエ的世界観への憧れというものがどこかにあって、そういうものを美しいと思う傾向にあります。

今、プラトンの饗宴という本を読んでいます。彼の本の多くは登場人物の対話によってなされていますが、この本では登場人物達がエロースの神(愛の神)をそれぞれの演説で褒め称えています。ここでパイドロスだかパウサニアースだかが、古代ギリシャでの愛について「愛される側はすぐに愛する側を受け入れるというのは美しくなく、最初は幾分きつく当たったり、試練を与え、それを乗り越えて愛を成就するのが美しい」と述べていた記憶があります。
こういうのもやはり、ドラクエ的なんですね。ドラクエ5では花嫁への愛を示すためにダンジョンに挑んでなんかのアイテムを手に入れに行く必要があったと思います。これはこういった文化にならっているのか、それとも「かぐや姫」で、かぐや姫愛のしるしとして求婚してくる王子達に火鼠の皮衣や蓬莱の玉の枝をとってくるように命じたことを真似たのか、それは製作者にしかわかりませんが、いつの時代、どこの国でもこういうものに憧れるということはあるようですね。

かぐや姫では、王子たちが指定された品目を持ってくることが出来ず失敗に終わり、こういうところが「あ、日本らしいな」と思うんですけど、ドラクエを含む多くの物語では「大変。大変だけど努力の末に、結局は報われる」というストーリーが待っています。


現実世界では、どんなに頑張ったって社会的に成功したり、愛が成就したり、はたまた甲子園で優勝したりできるかなんてことは知りません。むしろ、いろんな人の人生も「勝負が決まりきった負け戦」であることの方がどちらかというと多いでしょう。

 

でも、それでも、どうか自分の人生がドラクエ的であることを祈って、今日とこれからを生きましょう!