浪人失格

恥の多い生涯を送ってきました。徒然なるままに日々の考えを記録していきたいと思います。

浪人生の建設〜人間の論理と浪人生の情緒とは?〜

今日、「人間の建設」という本を読了しました。これは小説というよりかは、小林秀雄氏と岡潔氏の対談を収録したものであります。

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小林秀雄氏というのは、まぁ普通に日本に生きていれば成人するまでのどこかの機会で1度は聞いたことがあるでしょう有名な批評家です。

岡潔氏は、まぁ普通に生きていれば成人するまでのどこかの機会で1度は聞いたことがあるでしょうが、残念ながら僕は不勉強のため存じておりませんでした。有名な数学家らしいです。


文系のトップの頭脳と理系のトップの頭脳による、日本史上最も知的な雑談と言えるだろう。というのがこの本の煽り文句です。

内容についていまこの記事だけにまとめようというのは、残念ながらできません。なにかこの小説にテーマがあればできるんですけど、これは雑談です。話題は激しく転回していって200ページもないこの本で、話題のタイトルは18章にも及びます。

はてさて、どんな事をこの記事でまとめようかと思案しながら読んだ後書きといいますか解説が、なんとも非常に面白い。
解説者は「茂木健一郎」さんで、僕の中では彼はタダのエセ脳科学者だとか頭がおかしい人なイメージがありましたが、なんともいいことを書いていて見直しました。

その「「人間の建設」の解説書」の「要約」をさせて頂きたいと思います。
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数学は論理を緻密に組み立てて積み上げる学問で、どこかで誤りがあればその証明というものが無に帰してしまいます。
それに対して、文学というものは緻密に組み立ててもいいし、論理に穴があってもいい。穴があったらそれが作品として味わい深いものになることもあるからです。

このように異なる分野で異なる価値観を所持しているはずの彼らですが、本書では数学家の岡潔氏と批評家の小林秀雄氏の間に多くの通じ合うところがあります。これの原因はなんなのでしょうか?

その答えは、岡潔氏さんの言うところの「情緒」という言葉です。彼によると、感情抜きでは学問といえども、数学は存在しえないという。この「情緒」があらゆる物事の創造の出発点であり、それを表現する媒体が数学であれ文学であれ芸術であれ、形態は違えど創造のプロセスの本質においては同じことなのです。

生命の本質は不断なる生成、脳による創造性の出発点が「情緒」であるとすれば、現代の混迷の中で、私達は「情緒」を美しく耕すことを努力しなければならない。
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はえーなるほど。って感じですね。本書の雑談のテーマはコロコロと変わるので、各部の具体的な部分というよりかは、その源流である「情緒」というものに焦点を絞って彼はこの解説書を書いたのだと僕は理解しますし、そう評価しています。

じゃあその源流をある程度話した上で、分岐した後の話も少ししてみましょう。彼らの話題というものは「学問、芸術、酒、現代数学アインシュタイン、俳句、素読本居宣長ドストエフスキーゴッホ、非ユークリッド幾何学三角関数プラトン、理性……」というふうに流暢に流れていきますが、その中で1点だけ気になったところを挙げさせて頂く、というか、この記事のオチというものを最後に書いて筆を置こうとおもいます。


本書の中で、岡潔氏は「愛と信頼と向上する意志、だいたいその三つが人の中心になると思うのです」と語っています。

浪人生の僕の中心は「虚無と信用の無さと無限に堕落していく意志」からなっていて、ごめんなさいという感じです。


「人間の建設」はなんとも難しいけど、「ダメ人間の建設」は3秒で出来てしまうものですね!

足裏に、感覚を集中して

人類が生まれて数百万年、僕らは靴を履いて歩くようになった。
そして忘れてしまった。大地との繋がりを感じなくなってしまった。

 

裸足。みなさんはあまりならないかもしれませんが、僕は裸足が、そして靴下で歩くのが好きです。
小学校の時から中学校、高校に至るまで学校で上履きを履かずに歩き回ることが多かったです。

なぜそういう風になったのかというと、「裸足の方が速く走れる」というデマなのかデマではないのかよくわからないものが小学生の中で流行る。小学生というものは足の速さで価値が決まるといっても過言ではないので、もちろんそのために✝瞬足✝やらなんやらでコーナーで差をつけようとするものですが、僕らの小学校では靴下で走るのが流行りました。
幾分グラウンドの砂は少し大きく角ばっていたため、裸足で走るには痛すぎた。そこで靴下で走ると、ちょうど良い。土を踏みしめ、土を押し、土に押されるそんな実感が大好きでした。

そして、裸足で走るということは実用的なことでもあって、これによって運動能力が向上するというのはよく指摘されることですよね。


さて、人間に個性があるように、地面にも個性があります。
柔らかい道、硬い道
デコボコした道、平坦な道
コンクリートの道、小石が多い道
靴を履くことで、これらは無個性なものになってしまいます。

確かに、靴を履かないと危ないことはたくさんあります。昔、裸足で校庭を走っていて栗のカラを踏んずけてしまって足に針がたくさん刺さってしまったことがありますし、文化祭作業中に釘を踏んずけてしまって血が出たことだってあります。
靴というものは危険から身を守ってくれますが、地面と僕、地球と僕の間の熱い包容を無機質な靴底が遮ってしまいます。

 

……さぁ、果たして本当にそうでしょうか?集中している時にセミの声とかが気にならなくなるのと同様に、意識を向けていないからこそ足裏なんか気にしていないというただそれだけのことなんです。

歩く時、裸足になろうとは言わないから、たまに意識的に足裏の感覚に注意してみてください。きっと感じることが出来るでしょう。何をか?凹凸や、硬さといった、大地の個性です。
これらに意識を向けながら、一歩一歩を踏みしめて前に進んでいくのは幸せな事ではないでしょうか?

東大生でも包丁で刺されたら死ぬ〜君の膵臓、めちゃウマで草〜

浪人生なので映画でも見に行こうということでトーホーシネマズに行って、スケジュール的に上映開始四分前ぐらいに「君の膵臓を食べたい」という映画に突撃しました。

これは数ヶ月前に某友人が推していた本が原作なので楽しみにして予備知識なしで見ましたが……めちゃくちゃ浅いなぁ。というのが感想です。

以降はネタバレを含むので自分で見たい人はブラウザバックして、見てから読んでいただけるとありがたいです。

批判するのが大好きな精神異常者なので随所随所で思ったことを書いていきます。
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見てない人向けのテキトーなあらすじ

この物語では、教師である主人公の過去を、ある図書委員の生徒に対して語ることを通して回想していきます。

高校時代、主人公はクラスの日陰者だが、ある日病院で同じクラスの人気者の女子の共病日記という自身の病気についての記録を拾い、彼女の膵臓の病気について家族を除いてただ1人だけ知ってしまいます。
その後、その女子から積極的に関わられるように、遊びに誘われるようになります。唐突に同じ委員に立候補されたり、博多のお泊まり旅行に連れ出されたり、そして親のいないお家に呼ばれたり。最初はそれを嫌がっていた主人公ですが、その体験を通じて彼女に惹かれていく...
一方で、彼女と関わることでクラスの彼女の親友から冷たく当たられることや、彼女の元カレであったクラスの委員長に殴られることなどの事件も起こり、今まで他人との関わりを避けてきた主人公にとってはなかなか厳しい事件がおこります。一方でそのように実存的に他人と関わるようになったことで、友達もできるようになります。

そんな中で彼女の持病が悪化、退院したら桜を見に行こうということでサプライズとして周到に準備します。退院の知らせを受けて意気揚々と待ち合わせ場所に着きますが、そこで彼女からの連絡が途絶えて待ちぼうけ。
その後駅の巨大液晶のニュースで、彼女が最近話題の通り魔に襲われて死んでしまったことを知ります。
そうして完全に心を閉ざして一ヶ月引きこもってしまった主人公は、彼女のお家に行って、生前の約束通り、例の共病日記を彼女の母親に見せてもらいます。そこに書かれていた彼女と過ごした日々の彼女の心中を知って、泣きに泣く。

というのが過去の回想。それを聞いていた、本の整理をしている図書委員の発言によって、彼女が残した手紙を現在になって図書室の蔵書から発見します。それを読んで、ほぼ喧嘩別れとなっていた彼女の親友との仲直りや、退職希望の取り消しといったような前向きな出来事が現在においても導かれて終幕します。
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はぁーーー要約書くのってめんどくさいですね。めんどくさい。

僕は前にも言ったかも知れませんが、タイタニック以外の映画ではなかなかに泣くことはできません。こういう話でも感動して泣くどころか、むしろなんか浅さを感じてしまいました。
僕は、感動シーンで泣くどころか、めちゃくちゃ笑ってしまう人間です。「あ、ここ泣かせようとしてるな、浅ましいwww」とか思って笑いを隠しきれません。

なんか、病気だとか死だとかが出てくる映画って基本的にズルいんですよね。まぁそういう点ではタイタニックもズルイんですが。彼女の病気を知ってしまって様々なゴリ押しの要求を受け入れてしまった主人公と同じように、病人には強く出れません。

すぐに生き返る世界線、そうですね、例えばドラゴンボールの世界では、死んでも、「でぇじょうぶだ、ドラゴンボールで生き返る」というように死というものが大変に価値のないものなのですが、実際の僕らの世の中というものはそれとは訳が違います。

24時間テレビで、障害を持つ方々をダシにして安い感動を売ってるのと同じような不快感を感じる人は少なくないと思いますが、こういう映画でも感じざるを得なかったのは、僕がひねくれているだけなんでしょうか?

 


さて、この文書はよくある「死ぬ人間が愛を通じて教えてくれる、生きる気力、理由」というテーマを様々なストーリーで具現化した作品の一つですが、僕はもう一つの大きな潮流を感じました。これは現在の流行りであり、そしてどうしようもない、解決出来ない問題でもあります。

そう、「コンテクストをガン無視した理不尽で強制的な存在」というものです。この作品で少し面白いなぁと思うのは彼女が病気ではなく、通り魔に刺されて死んだところです。

僕は昔友達がこんなことを言っていたのを思い出しました。「は?殺すぞ東大に受かったからと言っても包丁で刺されたら人は死ぬんだ」と。

これは、なんとも悲しいことですが、真理なんですよね。コンテクストとは文脈や背景という意味です。何でこれが最近の流行りの問題なのかわかりますか?端的に言って世界各地で起きてるテロですよね。
どんな崇高な大志を抱いて堅実に起きている人にも、そしてどんなにグータラしている人にも、平等に、そんな背景をガン無視して訪れるこのテロというものはなんとも無力感というものが。この点ではこの作品は面白いなぁと思います。

 

次に、物語で登場してきて恐らくドヤ顔で作者が書いて、読者の多くが感動した()と思っている作中のセリフについて触れておきたい。

「私たちは皆、自分で選んでここに来たの。偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今まで選んできた選択と、私が今までしてきた選択が私たちを会わせたの。私たちは自分の意思で出会ったんだよ」

これはヒロインが言ったセリフで一瞬あ〜これは激エモですね。と思ったんですけどよく考えれば普通におかしいですよね。
ある選択をしたらその後どうなるとわかっててその選択をして出会ったのならある意味「意思で選んだ」のかもしれませんけど、実際にはそんなことありません。
包丁を持って、相手を刺すと、99%以上怪我なり死亡なりしてしまうでしょうから、もちろんそういうような責任は取らなければなりません。
しかし、超巨大な扇風機をつけたとして桶屋が儲かる確率なんて1%もないんですから、たとえその結果桶屋が儲かったり人が死んだりしてもそのような責任もないし、あったとしても意識の外、つまり過失です。

各々の選択で出会うことになる確率なんて、包丁で人を刺す方ではなくて、風を吹いて桶屋を儲からせるようなものなので、それがあたかも自分達の意思であるかのように語るのはおかしくないですか?


他の発言だとそうですね、「膵臓を食べたい」っていうとこですかね。これはレヴィ・ストロースが批判するところの構造主義についての話でしょう。
さて、浪人生らしく参考書の説明から引用してみましょう。
未開の地では「キツツキのくちばしに触れると歯痛が直る」だとか信じられていますが、それを「原始的だ」と批判するのはお門違いで、要するに病気のものに対してそれに関していいものを抱き合わせて改善にしようという考え自体は先進国の臓器移植などと同じ動機に基づいている。未開の地も先進国でも同じ構造や論理を元にしているので、実際に起こす行動が違うだけで、優劣に差があるというものではなく、未開の地の手法を馬鹿にするのはエスノセントリズムだ〜みたいな話ですね。
はい、まぁ膵臓を食べたいというのは、そういう構造を元にしてるわけで、試験中に「あ、進研ゼミでやった問題だ!」と思う漫画界の住民と同様に少しなるほどなぁと思いました。、


最後に少しお話をしましょう。
先日、こんな話をしました(http://kusomaguroman.hatenablog.com/entry/2017/06/02/235500)。そして、ある種の感動映画においても、こういうような自分の知識や経験が感動するかどうかの分かれ目になるのかなと思うことがあります。

もちろん、僕は男子校出身なのでクラスで人気の女子はいません。女装が似合う男子ならいましたが、別に惚れはしません。そういう僕にとってはいろいろと共学のクラス内の人間関係は理解不能な訳で。こんな誰々と仲良くなったとかで喧嘩まで発展すんのか馬鹿だなぁだとか。
当然、こんぐらい重い病気の人と恋愛したことある人間はいないでしょうし、唐突に博多にお泊まり旅行に行ったことのある人間だっていないでしょう。
しかし、僕は感動できませんでしたが、これに感動できる人間というものは、自分の過去であったり、経験なりとどこかしらで重なるものがあったのでしょう。

過去の回想編のヒロインの人は16歳らしいですし、世の中の人はああいう経験してるんでしょうかね?いやぁ、いいもんですね。

といいつつも、主人公は女子に不慣れな男子なので、いろいろと「わかるなぁ」というところはありました。
例えばめちゃくちゃ長文のメールを打って消すところとか。
これは男子校出身者なら誰もが通る道らしくて、別の高校に行った友達も送ったことが黒歴史になっていると言っていましたが、もちろん僕だってやった事があります。
でもね、なんというか、やってみた方がいいもんだよね、いろいろと。

それでおいて僕達とこの主人公の何が違うかって、やっぱりノンフィクションかフィクションかの差ですよね。主人公には、向こうから積極的に来てくれて、自分の物静かさから何か深みを見出して尊重、受容してくれるヒロインがいます。当然の帰結としてこうなるでしょう。

実際の世の中では、ヒロインが不細工だとストーリーが始まらないし、ヒロインが声をかけてくれないので主人公だって何もできません。

僕だってね、家に帰ったら美人が居て、いい子いい子してくれるなら普段からもっと頑張って生きてもいいですよ。でもそんなことないじゃないですか。

 

そういう事の片鱗でも経験があるらしい、この映画を見て感動している周りの人が少し羨ましく、若干馬鹿にしている僕がいます。

他人を借りて、自分を語る。

面接などの機会で自分の思考パターンを他人に説明しろ、自分の性格を分析しろ、と聞かれることはよくあると思いますし、自分でやってみようと思うことだって少なくないでしょう。

その際に面白いなぁと思うのは、自分の体験や過去と照らし合わせて語るというのは客観視できないのでなかなかに難しく、逆に他人の立場に立ってみるだとか、物語を作ってみる方がわかりやすいということが多いのではないのかなぁということです。


例えば、遊園地で泣いている少年がいるとします。
その光景を見て「ああ、迷子なのかなぁ」とか「自分だったらインフォメーションだとかお客様センターに行くなぁ」とかいろいろ思うでしょう。(ちなみに、ここで「母親を探してあげよう」と考えるのは、趣旨から離れますね。これは迷子の立場ではなく自分の立場から考えていて、自分というものを消しきれていません。)

その少年の実際の気持ちというものは、これは絶対にわかりません。
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かつて、ある面接で「世の中には辛い思いをしている患者さんがたくさんいますが、そういう人たちの気持ちが分かりますか?」と聞かれたことがあります。
僕は少し悩んで、「身内にいないのでわかりません」と正直に答えました。僕はこの時にもちろん「わかります。」と答えた方が面接においては有用だと分かっていましたが、そう答えました。
その人の辛さというものは、その人にしかわかりません。それを分かったようなつもりに他人がなってしまうという事は、その人の高慢さ、慢心故の事であり、ある意味で侮辱行為なのではないでしょうか?偉い人にはそれが分からないようなのです。

たしかに、知識というものは、この「憶測」の精度を上げます。こういう病気はこういう症状が出る、だと知っていればそのような配慮は出来るかもしれませんが、自分がインフルエンザにかかってみないとインフルエンザというものがどれぐらい辛いのかは分からないし、それを知ったところで、あるインフルエンザの患者と自分とは、性格、境遇、環境、具体的な症例も違うから彼の気持ちを正確に読み取ることも不可能です。

ただ、絶対にその人の気持ちは正確にわからないと受け入れた上で、コミュニケーションを通じて寄り添うということはもちろん可能だと言うことは、付け加えておきましたが、どれほど面接官にこの意味が伝わったのかというと、ほとんど伝わってなくて、彼は僕のことをサイコパスかなにかと思ったのでしょう。

ほら、彼だって昔面接を受けたはずなのに、それでも僕の気持ちや考えというものは分からないじゃないですか。
そして、コミュニケーションを通じて相手に寄り添って貰うことに、僕もまた失敗しているじゃないですか。

もちろん、相手が十分に理解してくれている可能性もありますが、そういう場合だとしても、それならばそれで、自分は相手が理解してくれていないと僕が思っている時点で僕が相手の気持ちを理解することに失敗しているという証明にもなります。
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さて、こういうことを言って他人にはその人の気持ちがわかりっこないさハハハということを主張したいだけなのだと読者の方が思うのならば、それはまだ甘いです。
僕はこの「憶測」というものを、逆に肯定的に見ているという文脈にも注目して頂きたい。

先ほどの「迷子」「つらい」「悲しい」というのは、あくまで憶測で、これはその子供の気持ち、考えに思えて、あくまで自分のものなのです。
これを通じて、自分は迷子になった時にどういう気持ちになるのか、あるいはどういう行動をするのかという事を、実際に自分が迷子にならずして、その結論を得ることが出来るのです。

つまり、少年を見て自分が少年の気持ちになってそれを語ることで、「実際には少年の気持ちではなく、自分の思考」を抽出出来るということでしょう。

 

さぁ、なんで僕が急にこんなことを書いたのかというと、そのうちわかります。長くなるので、次回以降の記事に書きたいと思います。

全知全能の神はパフェの味に感動できるのか?

日々生きていく中で、世の中の物事が思い通りに行かないと辛いし、それに絶望することは少なくないでしょう。


思っていたほど綺麗ではない観光地や景色。
思っていたほど美味しくない食べ物。
思っていたほど楽しくないゲーム。
バク転をしようとしても、思っているように動かない体。
超絶美声を出そうとしても、思っているように出ない歌声。
待ち合わせに間に合わせようとしてもいつも遅延している中央線。
朝起きようとしても目が覚めるのは昼。


こんなことは細かいところまで1日過ごすだけでも何回もあるでしょう。例えば今日は思っていたほどラーメンの量が食べられなくて悲しくなりました。
想像するから、思い通りにいかないと辛くなる。期待すればするほど、その乖離に深い悲しみを覚えるのかも知れません。

そういう点では、全てを前もって知っている、全知全能という存在は、まさに憧れなのかもしれません。これから起きることがすべて分かれば、前もって分かってさえいれば失望なんてしません。最初から「そういうもの」が「そういうもの」であることを知っているのであれば、そのようなギャップというものは生まれませんから。


一方で、思い通りに行く、或いは想像以上のことが出来れば、または起きれば、それとてつもなく幸福なことです。

僕はこの幸せの例として抹茶のパフェの話を挙げます。このパフェは京都で食べた抹茶のパフェです。
かつて、僕は抹茶というものが好きではありませんでした。だからこのパフェを食べる時だって大した期待はしていませんでした。
しかし食べてみてその味に驚き、想像を遥かに超えるこの食べ物に思わず舌鼓を打ちました。

全知全能の神というものは、こうした感動を味わうことは出来るんでしょうか?(全能なので、出来るのでしょう。すごい。xを1だと定義たら、xが1であることぐらい当たり前なことですね。)

 

まぁ、何が問題なのかというと、前者の比率と後者の比率を鑑みるに、生活をしていく中で出会うのは前者の方が圧倒的に多いのです。
期待というものをしない人間であれば、前者のパターンは起きにくいし、後者のハードルだって下がるので最適化されてると言えばされてるかもしれません。


でも、やっぱり、期待してる時は人生が楽しいのです。脳内で幸せな妄想をしている時間はそれが真実なので、明日食べに行く不味いラーメンだって食べないで家で妄想してる上では特上のフレンチレストランでのフルコースにも劣りません。

実情を知らないということはある意味幸福ですが、その代金として、期待を裏切られてみるというのも悪くはないのかもしれんね。

なんというか、「いいとこ取り」は、難しい。

人生、人生って感じだ

1
やりたいことは何だろう?
太陽に当たりたいな、海風を浴びたい、浜辺でカニでも探したい

それをして、そういうことに時間を使って、何になるんだろうか。何の気なしに、捕まえたカニの気分になってみる。カニは、捕まえられた檻の中で、普段と同じように営んでいる、そうして結局檻の中でも別のカニと喧嘩をする。

カニとは僕だ。カニを捕まえる僕は僕ではなくてとっくに他の人なんだ。自分で捕まえているようで、自分が既に捕まっていることには気付かない。檻とはもはや言うまでもない。でも自分は文句を言えない、同じ穴の狢だからだ。


2
他人に寛容であるという事は、他人が自分に寛容であることを要求する理由にはならない。不寛容に対する不寛容を示した時点で、自分は寛容ではなくなってしまう。


3
ありとあらゆる人の発言権は、これを認めなければならない、相手の気に食わない発言も、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というヴォルーテルの有名な発言に抱かれることとなるでしょう。

でも、自分にはもはや喋る言葉もなければ、気力もないし、それを認められたいという気持ちもない。自分が相手の主張を絶対に聞くからと言って、相手が必ず自分の言う事を話だけでも聞いてくれるなんてことも有り得ないからだ。
そうすると、相手の言う言葉というものにも、それがそれなりの価値を持つのかわからなくなった。


4
他人に感情があると思うのは、自分に感情があるため、相手にもあるのだろうと考えているからだ。でも人間と言えるような人間なんて、結局自分だけなのかもしれない。他の人なんて、肉と骨がただあるだけで、その人が考えているかどうかなんて、わかりゃしないし、意味がない。生肉と骨をそれっぽく並べてもそれは人間を表さない。そうすると、逆説的に、自分だって人間じゃないのかなぁと思えてくるかもしれない。相手が人間でないのなら、自分ももはや人間ではないと思うことになったってなにもおかしくない。

しかし、そんなことは無い。これは確実に言える。なぜならこの微妙な雰囲気、つまり人生の、人生って感じを、僕は深く、そして確実に噛み締めているからだ。

百万人の為に歌われたラブソングなんかに、僕は簡単に思いを重ねたりはしない?

無人島の続きを書いても良かったのですが、今日はあることの悩みが爽快に解決したような気がするのでその事についてのことを感動をこめて書きたいなと思います。

 

人間には大きく二つの感情があります。「他人と同じでありたい」という考えと「他人とは違った存在でありたい、特別ななにかでありたい」という考えです。
前者は昔ながらのもので人間というものはその地の伝統的な集落で集団としての暮らしで重視されてきたものです。一方で、後者の考えは近代になって現れてきた個人主義的な発想で、いわば実存主義的な、つまり大衆とは違った、自分の生きる意味を名付けたいというものです。

なんでこのタイトルをつけたのか?このタイトルは、ポルノグラフィティの「ヒトリノ夜」という曲の歌詞ですね。(前もって断っておきますが、別に僕は歌詞大好き音楽大好きというわけでもないし、夜中にドヤ顔で歌詞ツイートしてる人をどちらかというと冷めた視線で見つめています。)

人々の「自分は別でありたい」という欲求を、あくまで大衆に向けて作られた作品がそれを満たすことが果たして出来るのでしょうか?

この問いは、多様化したニーズつまり前者と後者の対立というものは「画一的な需要」と「多様化した需要」の対立となるのではないでしょうか。

結論からいうと、芸術作品であれば、それは可能であり、ものによっては不可能でもあります。

作品の読解、鑑賞というものは双方向の解釈からなりますから、読み手の解釈によって作品の幅が広がるのではないでしょうか。具体的な例をあげるとしましょう。

例えば、僕は全然好きじゃないんですけど、お笑い芸人の小梅太夫氏は「まいにちチクショー」というネタを投稿しています。これを見て「へぇーつまんね」と思う人もいますが、中にはこういう人もいます

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別にこれが面白いか面白くないかはおいておいて、このような無理やりな解釈もやろうと思えばできるんだよ、という例として上げさせていただきました。

 

 

ところで、最初に書いた「悩み」とは現代芸術というジャンルについてです。
現代芸術のなにがいいのか、それについて上手く理解していませんでした。
現代美術の主流については以下のような感じで、明快な答えがありません。

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ピカソの絵は、なんで写実的な絵より評価されるんでしょうか?なんで小学生がパソコンで書いたような絵が数百億円で取引されるのでしょうか?
そもそもいったいシュールレアリズムの価値とはなんなのだろうか。
そう悩んでいたのです。

そして今日、その悩みに明快なひらめきが思い浮かびました。多様化したニーズに対応する作品を世に出すために「解釈、思考の余地」を残した作品が、現代の主流になったのではないでしょうか?
これらは国語の問題のように、1つの筆者の考えを書くというものではありません。国語の問題として登場するのは、それが客観的に見てある程度「解釈」の幅が決まっているというものなのです。しかし、詩やこのような芸術作品には、そのような決まったものがありません。だからこそ色んなふうに読み取ることが出来る。そうして多様な人々が多様な解釈をすることを阻むことはありません。

つまり、現代芸術というジャンルは、人間精神の上記のような発展にあうように成長したものだったのではないでしょうか?