浪人失格

恥の多い生涯を送ってきました。徒然なるままに日々の考えを記録していきたいと思います。

きけ ろうにんのこえ

代々木 一郎
平成29年TDJ学園卒業。同年4月駿〇入学。御茶ノ水部隊に編入。30年3月東京にて戦死。20歳。

 

平成三十年一月三十一日 晴
 (中略)東〇大学の一学生が一浪人生を赤本で殴打し、頭蓋骨が割れて鮮血にまみれ地上に倒れた。彼の答案を足蹴にし、また「5完はマスト」等と罵声を投げつける。見るに忍びない。それを同大学の教授も冷然と見ている。五〇学長の指図らしい。冷血漢。罪なき民の身の上を思い、あの時何故後れ馳せでも良い、俺はあの浪人生を助けなかったか。自責の念が起る。予備校の友人であろう、血にまみれた男にとりついて泣いていた。しかし死ななかった。大学生が去ると立ち上がって友人に支えられながらトボトボ歩き去った。
 俺の子供は浪人生にはしない。浪人生にだけは・・・・・・合格だ、現役合格が一番だ。
(後略)

人間もろい論者と人間丈夫論者

人間すぐ死んじゃう論者っていますよね、こけただけで頭の打ちどころが悪いと死ぬだとか、落馬しただけで死ぬだとか。
一方で人間丈夫論者も割といます。明らかに衛生が終わってそうな食べ物を食べても腹を壊さない。あるいは4階ぐらいから飛び降りても受身をとれば平気だとか。

 

 

どっちが正しいんでしょうか。
そう考えると「人によるよね」以外の解釈のしようがありません。
たとえば「致死量」というものを用いる時に、半数致死量というのがよく使われます。
『半数致死量(はんすうちしりょう、median lethal dose)とは、物質の急性毒性の指標、致死量の一種としてしばしば使われる数値で、投与した動物の半数が死亡する用量をいう。』(Wikipediaより)。
たとえばカフェインの半数致死量をとったとして、死ぬ人は死ぬけど半分の人は生きているもんなんですね。

まぁ渋谷のギャルとかが前者でムキムキマッチョな人が後者なんでしょう。自分はどっちなんでしょう。

試してみるのに落馬してみたり、4階から飛び降りたり致死量スレスレまで薬物を摂取したりしようという気にはなりません。空を飛ぼうとして事故で死んでいった先人は数知れませんが、僕の場合は、好奇心はついぞ僕を殺すことはできませんでした。

もしくは芦田愛菜

「お前の好きなタイプってどんなん?」
「背が高くて髪がショートの女の子かな」
「じゃあ好きな女優は?」
芦田愛菜
「さっき言ってたのと全然タイプ違くない?」

こういう事はありませんか?実はこの男のタイプは「背が高くて髪がショートの女の子『もしくは芦田愛菜』」なんじゃないかなぁと思います。

自分の大まかな志向ってあるじゃないですか、それとは別軸でも、飛び抜けてる人は素晴らしいんですよね。

尊敬する人を『デカルトヴィトゲンシュタイン』とか挙げてる気難しい人から見ても、プロ野球選手というのはやっぱり尊敬出来る人なんじゃないでしょうか。

言葉では、自分を正確に表現することが出来ません。確かに言葉選びのセンスによって幾分上手い下手があるかもしれませんが、どんなにうまい人でも語り尽くすのは難しい。
「目が黒木メイサ風で〜、体格は実質朝青龍〜」みたいな表現をされるよりも、写真1枚の描写にはかなわないし、写真1枚の描写だって動画にはかなわない。動画だって、実際の三次元的な視覚にはかなわない。
言葉の強さというのは良くも悪くもデフォルメです。

「好きなタイプは?」と聞かれて、本人に概念として「背が高くて髪がショートの女の子、次点で快活な女の子、もしくはイケメンな女の子、朗らかな女の子、いやみったらしくない女の子、めんどくさくない女の子、もしくは芦田愛菜、もしくは本田翼、もしくは阿部寛、もしくは新垣結衣、もしくは...もしくは......」というものがあったとして、今でさえ言葉で尽くしきれないのに、それが日常会話で言いきれるわけなんてなくて、結局「背が高くて髪がショートの女の子」で十分なんです。

受け取った相手は、「でもこいつ芦田愛菜も好きなんだろうな...へへへ」とでも思っておけばいいんですよ!

慣用句に支配された行動

鼻っつらと聞いたら、「折る」以外の選択肢はないですし、あ、「明かす」もありますね。出る杭は、「打つ」以外の選択肢はない。

 

うーん、中指と聞いたら、「立てる」以外のコマンドを、僕は知らない。

現代日本の「イニシエーション」

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initiation…ある集団や社会で、正式な成員として承認されること。また、その手続きや儀式。
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イニシエーションといえば、どこかの部族の人が成人の儀式でバンジージャンプをするだとか、そういうことを思い浮かべますが、よく考えてみれば現代日本でも結構あるなぁという話を今回はしようと思います。


適量の女性関係だとか、多少の悪事とかは、人間ですから経験すべきイニシエーションじゃあないでしょうか。

「はしか」という病気は、子供の時にかかってもたいしたことはありませんが、子供の時にかかった経験がなくて、大人になってからかかると、非常に重い病気になってしまいます。

子供の頃に少しいろいろやらかしたところでね、「子供だったからしゃーない」「あのころは若かった」と笑い合えば済むんですけど、例えば若い頃一切女性関係がなくて、大人になってからこじらせてしまうと、それはそれで大火傷になってしまいます。

 

僕は赤信号を渡る人や未成年飲酒をしている人を本気で軽蔑していますが、逆にそういうことを一切したことがない人を信用できるかというと、あんまり出来ないような気もします。
ときたま重大な事件を起こしてしまう人は、完全なワルではなくて、普段あんまり悪いことをしない人です。普段から発散しないから溜め込むし、発散の仕方が分からないから気持ちが爆発する時はとんでもない荒れ方をしてしまうといった様子で。三島由紀夫氏は、著書の不道徳教育講座(角川文庫)の「沢山の悪徳を持て」という章で『99%道徳的、1%不道徳的、これがもっとも危険な爆発的状態なのであります。70%道徳的、30%不道徳的、ここらが最も無難な社会人の基準でありましょう。このパーセンテージは、なかなか数学的に行かないのであって、1%不道徳氏の方が、30%不道徳氏よりも、ずっと犯罪の近くにいることが多い。中には豪胆なる政治家諸氏のように、1%道徳的、99%不道徳的というような比率を示していても、犯罪者どころか、立派に「国民の選良」で通っている人もあるわけです。』と述べています。

 

みなさんは「悪いこと」を経験してきましたか?納得のいく甘酸っぱい青春を送ってきましたか?

案外難しいもんですよね。こういう目に見えない通過儀礼をふまなければ立派な大人になれないぐらいなら、部族のバンジージャンプのように、「わかりやすい」イニシエーションの方がまだ易しいのかなぁと思います。

 

あ、僕の場合アレですね。目に見えた通過儀礼である大学受験というものをそろそろ通過しなければ!!!!

コンビニでトイレを借りると…

コンビニでトイレを借りると、申し訳なくなって何か買ってしまう。

本屋で立ち読みすると、何も買わずに帰るのが申し訳なくて、本を買ってしまう。

これらは「申し訳なさからくる購買意欲」と分類できるんじゃないかなぁと思いました。

他には「もったいなさからくる購買意欲」とかありますよね。
コンコルド効果だかそんなんで、いままで開発に多額を費やした事業とか、課金しまくったソシャゲとか、これからそれを続けても時間や資金で損をすると分かりきっていても、辞めたらそれまでの投資が無駄になってしまうから続けざるを得ないという感じ。UFOキャッチャーはあんまやったことはありませんが、あれはぬいぐるみを取ろうと500円入れてもどうせ取れなくて、500円無駄にするのは嫌だからついつい連コしてしまいそうなもんですよね。

 

思えば、本当に自分が欲しいと思って買ってる、純粋な購買意欲ゆえの買い物ってなかなかないのかもしれません。

 

「イキリ」とか「ウェイ」とか。便利な言葉を多用しすぎていませんか?

先日友達がこんなツイートをしていました。

「そういえばこの前、君早口だからイカ東っぽいみたいなこと言われたときに「話すのが遅いのは他人の時間を余計に使ってるってことじゃない?」って言ってみたら、「そういうところもイカ東だよね」って笑われて、一理あるけどそういうところで笑うのもまたテンプレ会話だなあと嘆かざるを得なかった」

ああこのツイートまで含めて「めっちゃ早口で言ってそう」だなフフフと思いました。でも、こういう反応というのは「めっちゃ早口で言ってそう」というテンプレフレーズが思い浮かんでくるから出てくる感想なんですよね。


さて、みなさんはオンラインゲームとか遊んでみたことありますか?

オンラインゲームは自由に発言を打ち込めるタイプもありますが、いくつもある「テンプレ」から発言内容を選択して発言する。という形式も一般的ですよね。
一々「ありがとうございました」とか打ち込むよりも、定型文一覧からボタン一つで発言出来る方が「楽」なんです。

そう、テンプレとはなによりも「楽」なんです。蓋し、自分たちの会話もテンプレにまみれていたなぁと。「魔剤?」「マ」という会話に情報量はほとんどありません。テンプレ会話は何も考えなくていいので便利です。

 

昔、こんなことを聞いたことがあります。現代社会は処理するべき情報量が多すぎるので、「キャラ付け」を通して情報量を減らさないと生活が難しいのだという主張です。

例えば、ある友達がいて、その人の趣味、性格を細かく分類して記憶するのは大変ですが、「ウェイ」だとか「オタク」だとかいう簡単なフレーズに頼ってみると、とても簡単に整理ができます。

偏見だって、これと同じパターンなんじゃないでしょうか。ある集団、たとえば日本人という集団がいて、そりゃ日本にもいろんな人が一億人以上いますから、人それぞれですけど、それをいちいち考慮するのははっきり言って不可能なので、ここで偏見という便利なツールを用いて日本人としてひとくくりにして最大公約数的な事柄を探してしまうことで、「YES NOをはっきりと言えない」等といった解析結果が得られます。

偏見とはいつも悪い面で見られがちですが、生きていく上でこれを避けることは難しいです。刑務所から出てきた集団を見て、そりゃ中には更生した人がいるかもしれませんが、生活上では「ヤバそうな人たちだな」と思っていた方が便利なんじゃないでしょうか。


しかし、偏見によって不適当な評価を受けた時、当然人は腹を立てます。開校記念日で学校が休みだから平日街で遊んでいた時に、警察官から「平日に遊んでいるなんて不良少年に違いない」という偏見を受けると、とても腹がたちます。(しかし、平日に遊んでいる子供達を怪しむのはほとんどの場合でアウトな場合なので、警察の仕事として彼らの行動もまた正しいのです。)

つまり、偏見によって便利になることもありますが、偏見によって不利益を受けることもあります。

 

世の中、全てが便利なものとはなかなか無いもんですね。