浪人失格

恥の多い生涯を送ってきました。徒然なるままに日々の考えを記録していきたいと思います。

コンビニでトイレを借りると…

コンビニでトイレを借りると、申し訳なくなって何か買ってしまう。

本屋で立ち読みすると、何も買わずに帰るのが申し訳なくて、本を買ってしまう。

これらは「申し訳なさからくる購買意欲」と分類できるんじゃないかなぁと思いました。

他には「もったいなさからくる購買意欲」とかありますよね。
コンコルド効果だかそんなんで、いままで開発に多額を費やした事業とか、課金しまくったソシャゲとか、これからそれを続けても時間や資金で損をすると分かりきっていても、辞めたらそれまでの投資が無駄になってしまうから続けざるを得ないという感じ。UFOキャッチャーはあんまやったことはありませんが、あれはぬいぐるみを取ろうと500円入れてもどうせ取れなくて、500円無駄にするのは嫌だからついつい連コしてしまいそうなもんですよね。

 

思えば、本当に自分が欲しいと思って買ってる、純粋な購買意欲ゆえの買い物ってなかなかないのかもしれません。

 

「イキリ」とか「ウェイ」とか。便利な言葉を多用しすぎていませんか?

先日友達がこんなツイートをしていました。

「そういえばこの前、君早口だからイカ東っぽいみたいなこと言われたときに「話すのが遅いのは他人の時間を余計に使ってるってことじゃない?」って言ってみたら、「そういうところもイカ東だよね」って笑われて、一理あるけどそういうところで笑うのもまたテンプレ会話だなあと嘆かざるを得なかった」

ああこのツイートまで含めて「めっちゃ早口で言ってそう」だなフフフと思いました。でも、こういう反応というのは「めっちゃ早口で言ってそう」というテンプレフレーズが思い浮かんでくるから出てくる感想なんですよね。


さて、みなさんはオンラインゲームとか遊んでみたことありますか?

オンラインゲームは自由に発言を打ち込めるタイプもありますが、いくつもある「テンプレ」から発言内容を選択して発言する。という形式も一般的ですよね。
一々「ありがとうございました」とか打ち込むよりも、定型文一覧からボタン一つで発言出来る方が「楽」なんです。

そう、テンプレとはなによりも「楽」なんです。蓋し、自分たちの会話もテンプレにまみれていたなぁと。「魔剤?」「マ」という会話に情報量はほとんどありません。テンプレ会話は何も考えなくていいので便利です。

 

昔、こんなことを聞いたことがあります。現代社会は処理するべき情報量が多すぎるので、「キャラ付け」を通して情報量を減らさないと生活が難しいのだという主張です。

例えば、ある友達がいて、その人の趣味、性格を細かく分類して記憶するのは大変ですが、「ウェイ」だとか「オタク」だとかいう簡単なフレーズに頼ってみると、とても簡単に整理ができます。

偏見だって、これと同じパターンなんじゃないでしょうか。ある集団、たとえば日本人という集団がいて、そりゃ日本にもいろんな人が一億人以上いますから、人それぞれですけど、それをいちいち考慮するのははっきり言って不可能なので、ここで偏見という便利なツールを用いて日本人としてひとくくりにして最大公約数的な事柄を探してしまうことで、「YES NOをはっきりと言えない」等といった解析結果が得られます。

偏見とはいつも悪い面で見られがちですが、生きていく上でこれを避けることは難しいです。刑務所から出てきた集団を見て、そりゃ中には更生した人がいるかもしれませんが、生活上では「ヤバそうな人たちだな」と思っていた方が便利なんじゃないでしょうか。


しかし、偏見によって不適当な評価を受けた時、当然人は腹を立てます。開校記念日で学校が休みだから平日街で遊んでいた時に、警察官から「平日に遊んでいるなんて不良少年に違いない」という偏見を受けると、とても腹がたちます。(しかし、平日に遊んでいる子供達を怪しむのはほとんどの場合でアウトな場合なので、警察の仕事として彼らの行動もまた正しいのです。)

つまり、偏見によって便利になることもありますが、偏見によって不利益を受けることもあります。

 

世の中、全てが便利なものとはなかなか無いもんですね。

東京にいながらして北海道のカニを食べたい

今からする話は数ヶ月前のものなので少し記憶が違っているかもしれません。

ジャンプで漫画を読んでいて、そうそう、「鬼滅の刃」という作品なんですが、大体のストーリーを言うと、鬼と人間が戦うというものなんです。
その戦いの中で、鬼に対向する人間の組織の幹部が、鬼に認められて「お前は強い、すぐに死んでしまう弱い人間なんかではなく鬼になって武芸を極めないか」と誘われるんですが、「人間は鬼と違って死ぬし、死ぬその儚さ故に一生を大切に生きられるのだ」的な感じで断って戦い続けるものの、主人公に思いを託して死んでしまいます。

うわーカッコイイ。その時はそう思いましたし、なによりこの作品セリフ回しが異常に良いものですから、惚れ惚れとしてしまいます。

 


さて、ここまでは話の枕で、ここからが本題です。他の作品でも、人間の儚さを肯定して、不老不死の存在だとか、科学的に肉体改造された人間をネガティブキャンペーンするものというのは案外多いですよね。

果たして本当にそうなんでしょうか?

たしかに、不老不死ではないからこそ毎日毎日を大切に生きられるのかもしれません。

ですが結局は、人間は不老不死にはなれないから、弱者のルサンチマンとして不老不死をとりあえず叩いて、弱者である所以、即ち「死ぬ運命にあること」、いわゆるmotalityをバンザイしているだけにすぎないんじゃあないでしょうか?


なんてったって不老不死(というより、生きたいだけ生きて死にたい時死ねるみたいな)方がいいに決まっています。

 


例えば、昔は東京にいて新鮮な北海道のカニを食べるということは出来ませんでした。この不便さ故に、「北海道のカニを食べる」という経験は大変希少性が増しますし、貴ばれます。
しかし現代では、東京にいながらして世界各地の名産品を食べることが出来るじゃあないですか。そういった場合、世間一般の人の多くは、わざわざ各地に赴かずに、東京で食べることを選択する方が多いと思います。

要はそういうことじゃないんでしょうか。

電車内で隣にJKが座った時

自分が社会から第一印象としてどう見られているのか、というのを確かめる方法というのはいろいろあります。

例えば、歩いていて警官に職務質問をされたとすれば、それは「見るからに怪しい」人間であることを示すことになるでしょう。

もっと簡単な方法で、若干すいている時間帯の電車でこれを確認することができます。
自分の隣に若い女性が座ってきた時は、それは即ち自分が「社会的にヤバそう、危なそう」な人間でないことを示すからです。

もっと言えば、4人座席で、一番端に自分、もう片方の端に別の男、間の2席が空席のときに、次に乗ってきた女子高生が、自分側に座った瞬間、「あ、自分って認められてるんだな」という安心感に、自然と包まれます。

君走るの上手いねぇ!

昨日、東洋大の桐生さんが日本人初の100メートル走9秒代をたたき出しました。素晴らしいですね。

桐生さんは数年前から9秒代を出すのではと注目されていて、僕も中3の時、陸上部だったので顧問の先生からチケットをいただいて、味の素スタジアムで開かれた、桐生さんが出場していた大会を見に行ったことがあります。
その時はまぁ9秒代は出ませんでしたが、今回見事達成したとのことで、なんとも、おめでとうございます。


話はここで結構変わるんですが、日曜日にテレビをつけていたら、割と競馬が放送されていることも多いと思いますが、それを先日見ていると、G3だかのカップで、最後の600mを34秒だかで走っていると聞いて驚きました。人間の2-3倍ぐらいの速さですね。

こりゃ人間は動物にゃ走ることで敵わない。そんなことを思いながら、足の早い動物について何気なく調べてみました。グリズリーみたいな体格がデカくてのろそうなクマですら時速60キロぐらいは優に出せますし、あんな体のバランスの悪いダチョウでも時速70キロとかで走るようで、なんというかビックリですね

ウサイン・ボルトのトップスピードが時速45キロあるかどうかなので、動物界というのはやはりレベルが段違いなのです。

ここで、足が早い動物で有名なチーターの記述についてみてみましょう

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チーターが地上最速の動物で、最高時速は75マイル(時速約121km)にもなります。トップスピードで100m程度走ることができ、静止状態からわずか5秒で時速62マイル(時速約99.8km)に達することができます。これはほとんどのスポーツカーよりも速い加速です。
ーーーーーーーーー(出典略)

すげえええええええ

でもね、結局彼らはそういう動物「である」というだけなのです。

桐生が凄いのは、人間なのに、日本人なのに9秒代を出したということです。

別にチーターをトラックで走らせてウン秒代が出たからと言ってそんなことは当たり前で、どうでもいいことで、チーターは大人しく檻にでも入ってればいいんです。

チーターはスポーツカーより加速性能があっても、スポーツカーに轢かれると負けてしまう😢

なぜ僕は自ら自分の恥ずかしい話をするのか

僕は詮索というものが苦手です。

相手が、本人から晒してくれた情報を見聞きするのは好きですが、自分からわざわざ相手について隠れて知ろうとする行為というものを、その内容の良い悪いを別として、あまり好きではありません。

僕は、自分の恥ずかしいことをすぐに相手に公開してしまう癖があります。
僕を見た多くの人は、「なんでこの人は自分のことを、それも恥ずかしいことも含めて自分からわざわざ言っちゃうんだろうか」と思うかもしれません。

僕が受けた数少ない駿台の英語の授業の中で偶然文章に出てきた話で、自分について語らなければいけない時、どれほど真実を語ろうとしても、結局それは本当の姿でもないし、何を語ったところで、自分に都合が悪いことを語らないことによって、ある意味自分というものを偽装してしまうものだということを知ったことが大きいでしょう。

たしかに、人は自分に都合の悪い事はあまり言いませんし、それを隠すことで自分をよく見せようと思うのかもしれませんが、僕の場合は逆です。
自分の弱点や悪いところをすぐにみせびらかしてしまいます。

弱みを相手に公開する事で「こいつ別に敵じゃないなぁ」と思ってもらえるとも思うし、第一、隠していてそれが見つかってしまうのよりは、自分から言った方が清々しいし、自分から言ってしまえば相手はそれをあまり悪くは思わないものなのです。

僕には羞恥心が欠落しているのかもしれません。プライドがないのかも知れません。でもそんなことはどうでもいいと僕が思う理由は、無駄にカッコツケている日々は、今の生活以上に大変だと思うし、単純につまらないと思うからです。

他人の恥ずかしいことを本人の口から聞きたいし、他人のカッコイイところも本人の口から聞きたい。相手がそれを言ってくれるぐらいの仲にはなってみたいものですね。

 

漏れる。漏らす。漏らせ。すべてを受け止めたいから。

公園で、日陰のベンチに座って、揺れている木の影を眺めているのはなかなかに面白い。

木漏れ日があるのは、まさに木漏れない日があるから。植物を育てるのに役立っているのは木漏れない日なのかと思うといろいろと悩ましい。